米澤穂信さんが書かれた〈古典部〉シリーズの京都アニメーションによるアニメ化、いよいよはじまりました。
10日ほど前に行われた先行上映会の感想をネット上で見かけて興味が湧いたのと、先にザッとでも原作に目を通しておいた方がいいかと判断して、1作目の『氷菓』だけを軽く通読してからアニメを見たのですが、メディアミックスなど最初から全く想定していない小説の文章を、よくもまぁここまでアニメに落としこんできたなと思いました。
作画のクオリティもさることながら限られた時間枠に凝縮された情報量がハンパないですね。
ながら見だと1回目ではウッカリ伏線とか感情表現とか細かいところをいくつも見落としてしまうでしょう。
それと、今回は作中の時系列順ということでBパートが『氷菓』でなく『遠まわりする雛』からのエピソードをやっていたようですが、アバン・Aパートと同様に登場人物が(伊原摩耶花が加わるまでの)折木奉太郎・千反田える・福部里志の3人のみで、その3人の出会うきっかけから個性なり立ち位置なりを、じっくり描くことに専念したような印象でした。
おそらく視聴者の中では1話の印象は賛否真っ二つに分かれると思いますが、数話後で明かされるであろう「なぜ“氷菓”なのか」、そこに至るプロセスを見てから判断すべきように感じました。
もちろんこれといってカタルシスを感じるようなオチなどないのですが・・・余計に賛否真っ二つに分かれるかも?(苦笑)。
ちなみに、私が『氷菓』を一読した後の印象は(砂糖もミルクも入れないブラックの)コーヒー、強いてもう一つ形容するならSaudade風味の、というところでしょうか(“Saudade”という語を私が持ちだしたのは“氷菓”の名付け親となる人物と『氷菓』の最後に語り部的な役割で登場する人物が共に高校生だった1967年のある一件をを3人が追うことになぞらえて・・・ですかね、なんとなく日本語でなくでなく“Saudade”が思いついたのですが)。
ともあれ、1話を見た印象では自分に合ってそうな雰囲気の作りになってましたので、『氷菓』の終わりをどう描くかも興味深いですし、これからも見続けていこうと思います。
そういえば、小説家・作家はもちろん学者の著書・論文とかクラシック作曲家の作品とか、その人の処女作の中には個性なり今後の大まかな方向性みたいなのとかが(後の成果から改めて振り返って見ると)内包されていることが多いようですが、米澤さんの『氷菓』はどうなんでしょうね?もちろんその一般例から外れる人もいるわけですが・・・例えばストラヴィンスキー、彼の作品1に当たる交響曲第1番なんて、私が高校の時にドラティ&デトロイト響の録音で初めて聴いて、とてもこれの数年後に『春の祭典』を作曲した人と同一人物が書いたとは思えなかった(むしろリムスキー=コルサコフあたりの曲じゃないのかと思った)ほどでしたが。
まぁこの曲の総譜はリムスキー=コルサコフに献呈されたらしいですけど・・・。
閑話休題。
「やらなくてもいいことなら、やらない。
やらなければいけないことは手短に」
という省エネ?がモットーの奉太郎が肉体派の姉の手紙による勧めで古典部に入部、部室に行ってみたら両家の清楚なお嬢様えるがいて、なんのかんので彼女の大きく活発そうな目と
「わたし、気になります」
の一言で、彼女の好奇心から逃れられなくなった、という流れ。
アクティヴとは正反対の位置にいる彼にしてみれば、彼女の旺盛な好奇心にはとても付き合いきれたものではないけれど、さりとて無碍に「No!」とは既に言いづらくなっている・・・そういった心境が特にBパートのエピソードで丁寧に描かれていたのはよかったですね。
しとらす的にはAパート最後のこの部分でなぜ「G線上のアリア」をバックで流したのがが「わたし、気になります」wかな?
ストリングスで奏でられる旋律の美しい曲ですが、同時にわりと追悼の場で演奏される機会の多い曲でもありますので。
もちろん作曲者本人にはそんな意図など全くなかったでしょうし(バッハは器楽曲とは別に宗教音楽も様々なシチュエーションに用いられるものを多数書いてますし、管弦楽組曲自体が長年散逸状態だったのを後年になって再編されたものっぽくて、更に「G線上のアリア」には別の経緯もありますから)。