2006年1月20日(金)19時開演
@京都コンサートホール・大ホール
◆A.G.シュニトケ ハイドン風モーツァルト(Moz-art à la Haydn)
◆S.プロコフィエフ ヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調 Op.19
(休憩)
◆D.ショスタコーヴィチ 交響曲第11番ト短調『1905年』Op.103
指揮:井上道義
ヴァイオリン:アナスタシア・チェボタリョーワ
新年明けて初めての、オーケストラ・コンサート。
昨年2月の大フィルの京都公演、ミッチーの指揮で聴いたメインのショスタコーヴィチの5番がとても素晴しく、期待して出かけました(あとでどこかで見たのですが、ミッチーって日本ショスタコーヴィチ協会の初代会長?!)。
ミッチーの指揮で京響を聴くのは、実は初めてだったりして・・・(汗)。
もう1年近く前の大フィル京都公演、京都コンサートホールが半分も埋まってなくて、アンコール前にミッチーが客席に向かって
「まだ京都会館で京響が定期をやってたときもガラガラで・・・」
なんておっしゃってましたが、本人はちょっとしたブラックジョークのつもりだったのでしょうが、私はミッチーと大フィルの皆さんに京都市民を代表?して、心の中でゴメンナサイしてました(苦笑)。
1曲目、初めて聴くシュニトケの曲・・・なんかステージの配置が変・・・椅子が指揮台から少し離して3脚、その指揮台も通常時と違ってテーブルみたいに真っ平らな角度になってます。
さあそろそろ時間が・・・と思ったら、今度はいきなり照明を全て落として真っ暗。
その、ステージが真っ暗な中を足音がして、どうも椅子に座ったらしい・・・と思ったら弾き始めました。
チェロとコントラバス。
で、少し経つと、ステージの両サイドからワラワラと人が楽器を弾きながら出てきて(暗いから顔がわからない)、なんかそれぞれがわざとガチャガチャ好き勝手に弾いてるような感じだなぁ、と思ったら、今度は急に照明が点いて、コーヒーカップ片手にロシア帽をかぶったミッチーが慌てふためいたような仕草でカップと帽子をテーブル指揮台の上に置いて、
「さあ、ちゃんとはじめましょ」
ってな具合でそれなりに全員が揃って演奏を始めます。
でもちゃんと揃わないで、すぐにバラバラになったりしますが(笑)。
どういう楽譜なのか見てみたい・・・。
服装は皆さん(ちょっとオシャレな感じの)カジュアルで、3人でヒソヒソおしゃべりしたりとかの演技も入れながらの演奏です。
今日のコンマスは渡邊穣さんなのですが、工藤千博さんもこの曲のみ出演されてました。
酒の勢い?でミッチーにケンカ売ってるようなフリが結構サマになってましたが(笑)。
曲自体は所々モーツァルトらしいメロディーが(何の脈路もないようにポッと)出てくるコラージュっぽい感じ。
ステージで繰り広げられてるのは、台詞無しの(だからパントマイム?)喜劇っぽいもの。
最後はミッチーに刃向かうかのように、1人また1人と演奏しながらステージを去っていきます。
ちなみに、プログラムには曲のタイトルの意味を
『モーツァルトの音楽を素材として人為的に加工した芸術、ただしハイドン風』
としていました。最後の終わり方はさしずめ『告別』交響曲風でしょうか?
バカ笑いしたいのをなんとか堪えて拍手をおくりました(笑)。
あの演出、ミッチーなのかなぁ。
とても楽しかったです。
あれで最後にいかりや長介さんが出てきて、おなじみの名台詞「だめだコリャ」を言ってくれれば大爆笑まちがいなしなのですが(←ムリやっちうねん)。
2曲目・・・はパス。昨年の大フィルのチャリティーコンサートの時にクラシック界のベルダンディーヒラリー・ハーンで同じ曲を聴いていますので、タダでさえあまり好きではないプロコフィエフだと、違うものとして楽しめずにどうしても比較して悪い印象を持ってしまいます。
3曲目。ショスタコーヴィチの11番シンフォニー、全4楽章が切れ目なく通しで演奏されます。
正直のところ今日は腰痛がひどくて、長時間ジッとしていられるような状態ではなかったのですが、曲が始まって時間が経つごとに、もうそんなのはお構いなしになってどんどん音楽のストーリーの中に引き込まれてしまいます。
曲に付けられた標題を文字通り解釈したら1905年にサンクトペテルブルクで起きた“血の日曜日事件”がテーマとなりますが、仮に「1905年」を全く知らずに聴いたとしても、何かしらのストーリーが容易に想像できそうな曲ではあります。
今日の演奏は殊更に標題的なものを強調するということは決してなく、スコアに書かれた音を全てその通りに現前させることに集中したような感じでしたが、ミッチーによってアンサンブルが緻密に作り上げられ、1つも蔑ろにされずにエネルギーを凝縮して出された音の数々は、嫌が応にも静寂と惨劇と鎮魂・諦観と、悪しき未来という結末に向かって畳み掛けるように突進していく最後を心の中に焼き付けるかのようで、すっかり圧倒されてしまいました。
これだけのショスタコーヴィチを聴かせてくれるあたりは流石です、ミッチー。
第2楽章と終楽章の凄まじいまでの迫力と、間に挟まれた第3楽章の静かに張り詰めた弱音のコントラストも印象的でした。
フルボリュームになっても曲想に合った硬い音を崩さずに鳴らしきった金管とパーカッションも素晴しかったですね。
最後の渾身の一振りのあと力尽きたかのように指揮台にちょっともたれかかるような仕草をしたミッチーでしたが、やっぱりちょっと疲れたのかな?
客席の反応も京響定期にしては珍しく、熱い拍手と素直な(正直に感動したよという意味合いの)ブラボーが返ってきてました。
楽員さんたちも満足したような笑顔が多かったです。
新年最初の定期で素晴しい演奏を聴くことができて、とても満足しました。