京都市交響楽団 第510回定期演奏会
2008年3月9日(日)14時30分開演@京都コンサートホール(大ホール)
◆G.マーラー 交響曲第9番ニ長調
指揮:大友直人
コンサートマスター:渡邊 穣
もう周知のように大友さんが常任としては最後の定期。
マーラーの9番はムントさんが最後の時にも採り上げてますが、意外にも京響がこの曲を定期で演奏するのはこの時が最初だったらしく、今日が2回目。
井上さんがすでにやってるかと思ってたのですが、8番はあっても9番はなかったんですね。
ムントさんの時の演奏は私は聴いていません。
Arte NovaからCDもリリースされているのですが・・・。
プログラムには京響のマーラー演奏記録(どの指揮者が、いつ、何番をやった、というデータですが、番号毎にどの指揮者が採り上げたとか初演の記録とか3つの視点からの一覧表)が載ってましたが、こうしたデータはありがたかったです。
その記録によれば、大友さんが京響で採り上げたマーラーは1・4・5・6・9・大地の歌。
思い起こせば私が京響を初めて聴いたのが5番の時(2004年4月・463回定期)で、6番以外はは全て聴いていることになります。
5番を生で聴きたかったのと、この曲で京響のレベルもある程度わかるかな、というのがきっかけだったのですが、あれからもう4年か・・・。
で、今日の9番。大友&京響のコンビができうる最高の演奏だったのは間違いないと思います。
第一、終楽章の最後の音がホールの空間から消え去っても、誰一人としてフライングブラボーも拍手もせず、緊張した静寂が数秒間保てたくらいですから。
他ならいざ知らず、残念ながら行儀の悪い中高年の聴衆の多い京響定期ではほとんど有り得ないことです(それでも誰かがアラームを鳴らしたおかげでせっかくの雰囲気がブチ壊しになりましたが・・・をいをい・・・誰だよ、京都の恥じ知らずめ!)。
今夜のN響アワーでちょうど同じ曲(チョン・ミョンフン指揮、ただし時間の都合で1・4楽章のみ)を放送していたので聴き比べた方もいると思いますが、あの放送を見て「勝った!」(笑)と思ったのは私だけではないはずで、京響の方が(穿り返せば極小さな綻びはあったかもしれませんが)演奏水準的にも良かっただけではなく、集中力や熱意の点では明らかに上回っていたように思います。
日曜だからか大友さんが常任として最後だからか、客席はほぼ満席に近い状態、それに昨年の大植&大フィルの予定が流れたこともあって大阪方面から来た方も多かったようですし、なにより当選して間もない門川市長も来てました。
そんな中で京響の実力の高さ(特に管セクション)を存分に示すことができて、ホントによかったと思います。
ですが・・・それでも・・・私は少し物足りませんでした。
技術的に破綻なく演奏するだけでイッパイイッパイという状態だったのなら此方としても割りきれるのですが、幸運にも(笑)今の京響ならまだ上が望めそうな手応えを聴き手に感じさせるレベル。
ただ、残念なことに、大友さんはマーラー指揮者ではないわけで・・・。
大友さんは下手な小細工をせずに正攻法で楽譜から忠実に音楽を引き出して全体のバランスをとりつつ細部を練り上げ、聴き手にその音楽の魅力を伝えることに長けた方、それはエルガーなど英国・北欧モノのように評判の良いものに限らず、私が聴いた中でもローマ三部作やアルペンシンフォニーあたりには大友さんの長所が活きていたと思います。
ですが、これはマーラーの9番。
指揮者の個性が曲に合うか否かや思い入れの深さがマーラーのどの曲よりも一層鮮明に現れそうな9番ですと、マーラーの音楽とはあまりキャラクターが相容れそうにないイメージのある大友さん(個人的に存じあげているわけではないので見当違いかもしれませんが、なんとなく育ちと品の良さそうな感じがしませんか?いかにもヤンチャでワンパク小僧な大植さんとは対照的に・笑)では、造形に巧みで美しい、という以上の演奏は望めないのかもしれません。
過度な演出を廃した演奏で一向に構わないんだけど、もう少し第1・3楽章あたりでどこかリミッターを外して突き抜けたというか剥き出しの感情というか人の心の中に分け入って匕首を突きつけるくらいの表現をどこかでやってもよかったかな、というのが私の印象です。
3→4楽章に移るあたりで、視覚が捉えた指揮者&演奏者の気持ちの入り様ほどには、耳から入る情報は(1・2+)3→4楽章の差異がそれほど感じられなくて、せっかくの終楽章の美しい演奏も魅力が少し減じたように見えましたし。
もっとも、このあたりは録音をとってみても多種多様な名盤の多い「マーラーの9番」像で聴き手のそれにも大きく左右されるでしょうから、演奏水準が高くて指揮者と楽団員の気迫に満ち溢れた演奏を京響が観客に提示することができて、まずはよかった、というところです。
同じコンビで5番を聴いた時から4年、オケの着実な成長は確かに見て取れました。
私はマーラーの9番は岩波新書で出ていた柴田南雄さんのマーラー本を手がかりに、ワルター&ウィーンフィルの1938年ライヴ録音(あのアンシュルス2ヶ月前の伝説の演奏ですね)のLPを買って聴いたのが初めてで(レコードを引越の際に手放したので今手元にはありません)、ひさびさの予習用に購入したSACDのティルソン=トーマス&サンフランシスコ響の録音
は一見おとなしい演奏に感じますけど、例えば第1楽章で、『大地の歌』の終楽章「告別」のラストの“永遠に、永遠に(ewig…ewig…)”のモチーフを第2ヴァイオリンに弾かせているところ、ワルターやバーンスタインとかですとアウフタクトを長めにとっている(柴田南雄さんが著書で
「むしろ溜息まじりの嘆き節として、アウフタクトの音符にむしろアクセントを置いてそれを長目に、・・・(中略)・・・アクセント付けによって、そのモチーフが『大地の歌』の『永遠に、永遠に』のこだまであることがより判然とするからである。」
(新書p164)と書かれているところ)のですが、ティルソン=トーマスも同様・・・というより、ただでさえ遅めのテンポなのにはっきりと‘長い’とわかる部分があったり、他にも両端楽章で特にフェルマータを随分長く伸ばしてたりとか、1~3楽章ではリズムの処理や強奏時の音色などで随所に切っ先の鋭さを見せることもあり、ネガティヴな要素が薄く優しさとか穏やかな幸福感すら漂うおかげで何度でも聴いていられるティルソン=トーマス盤
ですが、回数を重ねるごとに新たな発見も多いです。
レベルが上がった京響といえどもさすがにサンフランシスコ響あたりの域にはまだまだ及びませんが、成長過程にあり順応性も高いですし、マーラーを十八番にする指揮者では今日以上の感動的な演奏は充分できるでしょうから、グラミー賞レベルに一歩でも近づいてくれればなぁ・・・と願ってます。
そのためにも・・・前年度比で予算減というのは勘弁してほしいんですけどね>門川市長殿
今日は演奏会の後で京響友の会の交流会がホール1Fで催されました。
大曲の演奏でお疲れのはずなのに団員さんたちも積極的に会員とコミュニケーションをとってくださいましたし、ジャンケンで勝ったら景品(音楽ギフトカード500円券)というゲームもありました。
こうしたアイディアを出したりして積極的に盛り上げよう溶け込もうとする姿勢は嬉しかったです。
門川市長も挨拶だけではなく会の終わりまでお付き合いされていましたが、毎回とはいわなくとも極力公務の合間を縫って今日のように定期には顔を出してほしいと思います。
オケの士気にもかかわるだけではなく、なんといっても京響は京都市の一部署(組織上は京都市文化市民局-文化芸術都市推進室の下の「課」の1つ)ですので、堂々と“視察”(笑)に来ればいいんですよ。
前市長はサッパリ来なかったし(怒)。