京都市交響楽団 第544回定期演奏会
2011年3月26日(土)14時30分開演@京都コンサートホール
◆D.ショスタコーヴィチ バレエ組曲第1番
◆M.ブルッフ スコットランド幻想曲 op.46
(ヴァイオリン・ソロ・アンコール)
◇N.パガニーニ ヴェニスの謝肉祭−「いとしいお母さん」による変奏曲、より
(休憩)
◆P.ヒンデミット 交響曲『画家マティス』
指揮:広上淳一
ヴァイオリン:シン・ヒョンス
まずは原発事故のせいで海外アーティストの来日キャンセルが相次ぐ中、予定通りに来演してくださったソリストのシン・ヒョンスさんにお礼申し上げたいと思います。
事故現場と京都がかなり離れてるとはいえ、年頃の女性なら放射能に慎重にならざるを得ない状況ですし、それでも予定通り来てくれたのはありがたいことです。
大震災から早2週間が過ぎている今日ですが、実は演奏会前から散々なことがありまして(苦笑)、出かけて電車に乗ってからチケットを忘れたことに気づいて慌てて戻り、タクシー使ったりでどうにかギリギリ間に合いましたが、到着までに駅で発車に間に合わず電車が目の前を通り過ぎること3度、タクシー代で余計に散財したしでここまでツイてないのも滅多にないです・・・orz
プレトークを逃しはしましたが、1曲目に広上さん向きのショスタコーヴィチのバレエ組曲、さすが期待通りにノリノリ(笑)な演奏。
2曲目のブルッフもソリストが過度な情緒に流れることなく、美しい音色で落ち着いた好演奏でした。
そして後半、メインの『画家マティス』。
第二次大戦以来の日本の危機的状況にこの曲を聴くことになるとは、いったい何という巡りあわせなんでしょう・・・。
あのヒンデミット事件の契機となった曲ですが、私は高校の時に読んだ岩波新書『フルトヴェングラー』で知りまして、以来ヒンデミット事件と『画家マティス』って自分の中では全てイコールで結びつけていました。
ですが、自らも作曲家で後期ロマン派的な芸風のフルトヴェングラーと違って、同じドイツでもヒンデミットは新即物主義の系統ですし、『画家マティス』も本来はナチス絡みの事件によるベットリした感傷とは別個の、新即物主義の土台上にある曲・・・そういうものだということを今日の演奏で強烈に意識させられました。
後半に入っていくつもギアを上げたように壮絶な凄みを感じた広上&京響コンビでしたが、音楽の表現として抑えるツボはきっちり抑えた、とてもレベルの高い演奏だったように思います。
演奏後に卒団の方の紹介と花束贈呈があり、その後に広上さんが震災について初めて話されました(私は間に合わなかったので知りませんでしたがプレトークでは一切触れなかったそうですね)。
「京都が、京阪神のみなさんが、元気でいていただく、健康で文化的で居ていただく、そのことがなによりの支援ではないかと、私は思います。」
といったような挨拶をされたあと、前向きな気持ちで聴いてほしいみたいなことを仰ってからバッハのアリアを演奏されました。
広上さんは東京住まいので当然地震の被害に遭っているでしょうし、仙台フィルに客演されたこともありますから東北の事も気がかりだろうと思います。
思えば私が仙台に住んでいる頃に知人に
「新進気鋭な一押しの指揮者が来るから」
と勧められて聴いた定期が、広上さんの仙台フィル初登場の時だった気がします。
彼がノールショピング響のポスト持ってた頃と思いますが、私の残念な記憶力では当時のプログラムさえ忘れてしまって・・・どうしようもないですよね(苦笑)。
それでも広上淳一という指揮者の存在だけは強烈に頭の中に残ったままだったのですが、そんな昔のことを思い出しながら、広上さんの挨拶と京響弦セクションによるバッハのアリアの演奏を聞いていました。
レセプションは中止。
帰りのロビーと通路には広上さんと団員さん、事務局の方々が募金箱を手に支援を呼びかけていらっしゃいました。
1934年の初演は残念ながらドイツ音楽界を一層黒く染めるトリガーとなってしまいましたが、今日の演奏はその真逆で少しでも明るい方向に針を進める小さな兆しの1つになればと心から祈ってます。
予習にとNMLで聴いたフランツ=ポール・デッカー指揮ニュージーランド響のヒンデミット集
[→http://ml.naxos.jp/album/8.553078]
キウィ侮るなかれ、なかなかの好演奏でした。