今日の指揮者のエイドリアン・リーパーさんはNaxosレーベルの黎明期にスロヴァキアやアイルランドのオケと組んで多数の録音を残している方ですが、どんなタイプの指揮者か知るためにNMLで探して聴こうかどうしようか迷って、結局止めました。
20年近くも前の、しかも短期間での多数の録音となると、どうしてもヤッツケ仕事になりがちでしょうし、参考にはならないと思ったからです。
なので彼の指揮での演奏を聴くのは私にとっては本当に初めて。
さて、プレトークで女性の通訳を伴い眼鏡をかけて(後半では外してたのでたぶん老眼鏡かな?)登場したリーパーさん、パッと見の印象が写真とは少し違いましたが、元来のお喋り好きなのか同郷の誇るラッセルの分析哲学の影響でも受けてるのか知りませんが、まぁ細かいところまで語ること語ること(笑)。
通訳が入るので彼の持ち時間は実質半分になりますけど、立った数分のストラヴィンスキーの曲を説明するのに同じくらい時間使ってるし、おそらく舞台袖から急げと合図があったようで彼もそれを了承した風なことを途中で一言挟んではいたのですが、それでも開演時間をオーバーしてまでトークは続きました。
喋ってる本人は時間配分まで計算してなかったみたいで、ウォルトンのシンフォニーの説明が思ったよりもおざなりになってましたけど、土曜マチネだし折角だから本人の好きなように喋らせればよかったのになぁ~思ったのは私だけでしょうか?www
(でもあの調子だと平気で1時間くらい喋ってそう・笑)
京都市交響楽団 第565回定期演奏会
2013年2月16日(土)14時30分開演@京都コンサートホール
◆I.ストラヴィンスキー 管楽器のための交響曲〔1920年版〕
◆D.ショスタコーヴィチ ピアノ協奏曲第1番ハ短調 Op.35
(アンコール)
◇小曽根真「My Witch’s Blue」
(休憩)
◆W.ウォルトン 交響曲第1番変ロ短調
指揮:エイドリアン・リーパー
ピアノ:小曽根真
トランペット:ハラルド・ナエス(※ピアノ協奏曲第1番)
コンサートマスター:泉原隆志
1曲目。この曲は2つのエディションがありますけど、リーパーさんいわく、第1次大戦とロシア革命後で西欧にいた頃に『プルチネルラ』や『兵士の物語』などと同時期に作曲されたのと、渡米後(トークでは言われませんでしたが第2次大戦期にアメリカに亡命してからのストラヴィンスキーの作曲スタイルはセリー主義と一般的に言われてますね)に改訂されたものでは精神が異なると思う(通訳はこう翻訳してましたけどニュアンスがそれで正確なのかちょっと疑問・・・私のヒアリング能力不足でリーパーさんがどう言っていたのかわかりませんが、他にも旧ソ連共産主義の通訳が「?」の部分もあったし・・・なのでプレトークで語られていた部分にちょっと私の方で補足しています)というのと、あとは1920年版ではアルトフルートとアルトクラリネットという珍しい楽器が用いられていて2つの楽器の掛け合いもあるので注目してください、みたいなことを仰ってましたが、演奏の方は限られたリハの時間で何とかキッチリ仕上げてきたという印象でした。
2曲目。ソリストはクラシックの人ではなくジャズが本業の小曽根[http://www.makotoozone.com/]さん。この曲はいくらパロディや皮肉っぽい砕けた部分が散見されるからといっても、根っこがジャズなガーシュウィンの『ラプソディ・イン・ブルー』とは異なり全体的に純然たるクラシックベースの音楽ですので、さすがのテクニシャンでもスタイルの違いは隠せなかったのか、第1楽章などは微妙に乗りきれてない様子も伺えましたが、徐々にそれも解消された感じで、カデンツァから終楽章にかけては本当に独壇場といったノリノリの様相でしたし、オケの伴奏もソリストのスピードに合わせたリズミカルで疾走感ある演奏で、大変な熱演で締めくくられました。こういった変容の仕方などはライヴならではという感じでしたね。
熱烈な拍手を浴びる小曽根さんはさすが日本のジャズ界の大物ピアニストといった貫禄で、ピアノの蓋を自分で閉じてオケにも拍手を促す仕草とかにも千両役者のような余裕が感じられました。アンコールに弾いた自作の曲もとてもよかったです。
そして後半、メインのウォルトンの1番シンフォニー。コンサートパンフの曲解説の最後に
『※本公演では、指揮者の指示により、管楽器の編成を増やして演奏いたします。』
と本来の楽器編成のデータの後にご丁寧に書かれてありましたが、ステージに乗っかっているメンバーを見ると、フルートとオーボエ・クラリネット・ファゴットら木管が2→4本、ホルンが4→6本、トランペットとトロンボーンが3→4本といった形の増管でした。私の位置からはホルンがすぐそばなので、フォルティッシモとなるとそれはもう鼓膜にビンビン響くこと(笑)。
前半では眼鏡をかけ総譜を見ながら指揮していたリーパーさんも後半では眼鏡を外し指揮台を退かせての登場。それだけでも自信の程が伺えるほどでしたが、暗譜で彼のタクトから導かれた音楽は無駄な装飾を取り払うような引き締まった筋肉質の演奏で、終楽章も堂々とした感じで締めくくられ、とても聴き応えのある高い完成度に仕上げてきたように思いました。
しとらす的には第3楽章の抒情性をもう少し引き出してくれたら尚よかったのですが、それ以外は今の京響ではほぼベストでしょうか。
増管の効果もあってか関西では演奏機会に恵まれない曲にもかかわらず客席からの受けも随分とよかったように見えました。
エルガーやホルスト、ヴォーン・ウィリアムズらとはまた違ったタイプの英国モノの管弦楽の大作があるということを知らしめるのには良い機会だったのではないでしょうか。