パンフの解説を見てビックリしたのだけど、ジョン・アダムズの『ハルモニーレーレ』は1986年に日本初演(下野さん曰くケント・ナガノと新日フィル?だったかな)されて以来、一昨年に下野さんが読響の定期で採り上げるまで30年近く日本では誰も何処も演奏してなかったそうな。数ある在京オケがどこかしらやってそうに思ってたけど、そうでもないのんな・・・もちろん、西日本では今回の京響定期が初めて。欧米での知名度や評価、演奏頻度と日本の事情とのギャップはこういうところでもあるんですね。つべでも作曲者自身がベルリン・フィルを振ったのとか拾えるのにね。
プレトークは『ハルモニーレーレ』にちなんで和声に関するちょっとした豆知識的なお話。作曲家がある特定の(◯長調や◯短調といった)調に何かしら特別の意味合いを持たせることがあるということでモーツァルトやベートーヴェンを引き合いに出しながらお話しされて、ベートーヴェンは“変ホ長調”を交響曲第3番『英雄』と今回演奏するピアノ協奏曲第5番『皇帝』で用いてて(帰宅してググったら作品番号1-1のピアノ三重奏曲第1番にはじまり、弦楽四重奏曲第10番・第12番、七重奏曲、ヴァイオリンソナタ第3番、ピアノ三重奏曲第6番、ピアノソナタ第4番・第26番『告別』、エロイカ変奏曲、等々たくさんあるのな)、実は『ハルモニーレーレ』も変ホ長調で終わる、のだそうな。あとはミニマル・ミュージックには馴染みが無いだろうけど(そりゃまぁ京響の客層でフィリップ・グラスとか知ってる人は超レアでしょ)、でもその元祖はベートーヴェンの『運命』=交響曲第5番だと思ってて、今でこそ誰もが知ってるクラシックの名曲だけど、(200年前の当時)初めて聴いた人は驚いたはず。だから『ハルモニーレーレ』も100年後には普通に演奏されるようになるかもしれないという、“感じ”て聴いて欲しいと『ハルモニーレーレ』推しみたいな熱っぽいトークの締めでした。
京都市交響楽団 第618回定期演奏会
2017年11月25日(土)14時30分開演@京都コンサートホール
◆L.v.ベートーヴェン ピアノ協奏曲 第5番 変ホ長調 Op.73
(ピアノソロ・アンコール)
◇L.v.ベートーヴェン ピアノソナタ 第14番 嬰ハ短調 Op.27-2〜第3楽章
(休憩)
◆ジョン・クーリッジ・アダムズ ハルモニーレーレ(和声学)
指揮:下野竜也
ピアノ:アンナ・フェドロヴァ
コンサートマスター:西江辰郎
今回のコンサートマスターは新日フィルのコンマス西江さん。隣が泉原さんで年齢の近い人同士のコンビ。
今日は個人的な都合で朝が早かったのと、元々お目当ての『ハルモニーレーレ』に集中したいがため、前半は遠慮なく爆睡してましたw アンコールに『月光』ソナタの終楽章というサービスっぷりでしたけど、可もなく不可もなく、といった印象。
そして今年一番の楽しみだった『ハルモニーレーレ』。ナクソス・ミュージック・ライブラリにマイケル・ティルソン=トーマスとサンフランシスコ交響楽団によるライヴ録音のディスクが登録されてて、私はずっとそれで聴いてて馴染んでいたのだけど、あれは32年前に世界初演を任されただけでなく、現音楽監督のティルソン=トーマスがジョン・アダムズ含めて自国モノを積極的に採り上げてオーケストラも慣れてるからこそ、難曲と思わせないほどスムーズに聴ける、ということを大いに痛感しました。
上から見ると下野さんのめくる総譜は付箋と思しきものがカラフルにいっぱい付けてあって、パート1で見られた光景だと、オーボエ首席の高山さんが三拍子に合わせて上半身を三角形を描くように揺すったり、フルート首席の上野さんが時々足でリズムをとったりとか、明らかにタテを合わせるためだけのアマチュアっぽい動作がどのパートにも目立ってて、ミス無く通すためだけで京響があんなに苦労してるの、私は初めて見たように思います。演奏終了後の疲労困憊の度が過ぎて、下野さんや団員の方々がレセプションに顔出すのが遅くなったというオチがあったほどで。それでも音楽評論家の東条碩夫さんが
「京響の優秀さは今に始まったことではなく、今やN響、読響とともに国内オケのベスト3に数えられる存在、と言っても過言ではないかもしれない。」
と称賛する程度には、素晴らしい好演でした。
下野竜也(京響常任首席客演指揮者)が指揮するジョン・アダムズの「ハルモニーレーレ」は、一昨年、読響との演奏を聴き、すこぶる気持のいい思いをした記憶がある。今回は文化庁・芸術文化振興基金の事後調査の仕事を兼ね、もう一度聴きに来た次第。
プログラムの前半では、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第5番《皇帝》」が、アンナ・フェドロヴァをソリストに迎えて演奏された。「ハルモニーレーレ」との組み合わせとしては意表を衝いたものだったが、これは曲の最後が変ホ長調で終ることと、「皇帝」が変ホ長調の曲であることを関連づけたためのようである。さすが下野竜也だ。
今日のコンサートマスターは西江辰郎。フェドロヴァのピアノは細身の音だが、一つ一つの音に清澄な粒立ちがあり、音色が美しい。カデンツァなど、普通なら一気に均等に進んで行く音の流れの中で、時に強いアクセントを使って流れに変化を生じさせる弾き方が個性的だ。本来は豪壮な曲想の「皇帝」が、不思議に神経質な美しさを感じさせたのはそのためだろう。
ただし下野と京響の演奏は、それをがっしりと支えるような、堂々たる風格のものであった。
フェドロヴァはソロ・アンコールに、ベートーヴェンの「月光ソナタ」の終楽章を演奏したが、これも同じ特徴を持ったものだ。「ハルモニーレーレ」は、聴いた位置(1階15列中央)のためかもしれないが、以前サントリーホールで聴いた時と違い、オーケストラの内声部がリアルに聴き取れ、曲の面白さを倍加させてくれた。
下野の指揮も相変わらず巧いものだと思うが、京響の張り切った力感と安定感、音色の多彩さにも舌を巻く。京響の優秀さは今に始まったことではなく、今やN響、読響とともに国内オケのベスト3に数えられる存在、と言っても過言ではないかもしれない。しかもカーテンコールの際に、客席に顔を向けた楽員たちの明るい表情と、笑顔の素晴らしさ。国内オケの中には、客席に一切顔を向けない団体とか、向けたとしても「そんなに拍手するほど良かったですかねェ」と言わんばかりの仏頂面をしている団体が多いのに比べ、これだけ聴衆との温かい交流を感じさせる京響の楽員は見上げたものと言わなければならない。
聴く方にとってはさほど身構える必要がなく楽しめると思うんですよ。私なんかはあのパット・メセニーが持てる才能を全振りしてクラシック音楽の曲を書いたらこういうのできるかも?みたいな感覚でいましたので、生演奏特有の三次元空間に大人数のステージから響いて反射する音が彩りキラキラ満載でとても素敵な印象を持ちましたけど(あの独特の良さがわからない人にはトコトン合わないのか途中で席を立つ人が散見されたけど実にモッタイナイ)、演奏する側にとっては変拍子が多い上にミニマル・ミュージック独特の進行がリズム感とかいろいろ狂わされるみたいで、暗闇の中トラップだらけの地雷原を歩いて進むような感覚だったかもと同情します。でもこうして1度本番を無事に終えられたので、2日目の明日は少し余裕が出てくるのではないでしょうか。明日26日に行く方は大いに期待していいと思います。
生で聴いて実感できたことですが、ジョン・アダムズは『ハルモニーレーレ』でミニマル・ミュージックだけでなく他にもいろんなギミックをつぎ込んでいて、それで尚かつ聴き手に敷居の高さを感じさせなくて面白い・楽しい・エキサイティング・綺麗・美しいと場面々々で多様なイメージを持たせてくれる、実に凄いことをやってのけているのではないですか。私の個人的印象では、ジャンルが異なりますけど、’80年代〜’90年代初頭のパット・メセニー・グループの音楽に初めて接した時の、それに少し近いような感じがしましたが、ともあれ傑作には間違いないでしょう。京響のカラーにもよく合うし、数年内での再演を、次はライヴ収録込みで強く希望します。
★ジョン・アダムズ:ハルモニーレーレ/マイケル・ティルソン=トーマス指揮サンフランシスコ交響楽団[SACD]