今回の定期演奏会で採り上げられるマーラーの7番交響曲、単にマーラーの大作の1つを演奏すること以上に、当代最高の日本人指揮者の1人が練り上げ公的に認められたマーラーの最新校訂楽譜で演奏する、聴き手にとっても大変に貴重な機会であり、至福の時間と体験を得られることでしょう。
プログラムに掲載された高関さんと広上さんの寄稿文をまず転載しておきます。
「第632回定期演奏会」に寄せて
〜マーラー作曲 交響曲第7番ホ短調「夜の歌」高関健補筆版〜
京都市交響楽団常任首席演指揮者
高関 健
マーラーは作曲家であると同時に、リヒャルト・シュトラウスやトスカニーニと共に、20世紀初頭の音楽界をリードした大指揮者です。オーケストラの演奏を精密に聴き分け、頭の中にある響きに修正できる特別な能力を持っていました。作曲は年間100回を超える多忙な公演日程の合間を縫って、主に夏の休暇期間に集中して行われ、2年に1曲のペースで交響曲が完成。そして初演を迎えますが、ここからマーラー独自の仕事が始まります。
楽譜の印刷では、最初に原稿から筆写譜が採られ、これを基に製版、試し刷りが行われますが、マーラーはすでにこの段階から訂正や改訂を始めます。そして印刷。オーケストラとの練習に入ると、理想の響きを得るために大胆で具体的な変更(改訂)を行っていきます。第7交響曲の初演では朝と晩、2回の練習が12日間続きましたが、彼は毎晩パート譜をすべて回収してホテルに持ち帰り、一人で夜遅くまで改訂を続けたそうです。演奏後の楽譜は原稿や印刷された当初と大きく異なり、再演の際にさらに改訂が繰り返されました。現在、国際マーラー協会の主導により分散した資料が集約され、作曲者が演奏した最後の状態と判断できる楽譜の編集が進んでいます。第7交響曲も2010年に「新全集版」が出版されました。
「新全集版」を自筆原稿や初版楽譜と比較すると、改訂の目的が旋律や構成など曲の根本は変えずに、表情や響きの具体化に集中していることがわかります。 管弦楽法の変更、強弱やバランスの調整、一つずつの音の長短およびリズムの具体化、演奏法を確定、句読点の指定から「指揮者への注意」に至るまで、内容は詳細を極めます。楽譜を読んでいるとマーラーの頭の中に入っていけるような気持にもなるのですが、同時に改訂がフレーズの途中で中断、あるいは同じ動きの中でもパート間の強弱の不一致が残されるなど、不徹底なところもたくさん見えてきます。
演奏にあたり、こうした疑問を解決したい気持ちもあったので、国際マーラー協会に質問と提案のメールを送ってみたところ、協会は私の個人的な研究を真剣に検討してくれたようで、編集者から直接お答えをいただきました。当時は第2、第7交響曲が編集の最終段階にありましたが、私も議論に途中から参加、2曲について私の提案が評価に値するということで、一部分が「新全集版」の中に取り入れられています。
第7交響曲を編集したクビーク(Reinhold Kubik)博士から、「新全集版」は作曲家が最後に残した状態を再現することが目的であり、 改訂が不十分にみえるところも敢えてそのまま残し、編集者の判断で補うのを避けたこと。演奏の際に必要と確信できるならば、演奏者の判断で補うことはむしろ自然で音楽的な発露であること。その際、楽譜に付属する校訂報告に載せた周辺の資料、特に作曲者の自作自演に助手として立ち会った指揮者メンゲルベルク(Willem Mengelberg)のメモ…「マーラーはこのように演奏した」…を充分に参考にしてもらいたい、と指導をいただきました。
そこで私は、作曲者自身やこれまで知り合った巨匠たちの例に倣い、自分の考えをまとめ、練習の能率化を図るため、「新全集版」に必要最小限の補足を書き込んだ楽譜を作りました。最小限と言っても、実際はかなり多くの分量になりました。昨年11月に行われた藝大フィルハーモニア管弦楽団定期演奏会での演奏を目標に、京響ライブラリーの中村好寛さんに制作をお願いして、大嶋彌さんとアシスタントの皆様にも大きなご協力をいただき、多くの時間をかけてパート譜を作っていただきました。この楽譜は藝大フィルでの演奏を経て本日、広上氏に使っていただくことになりました。この後5月に私が指揮する群馬交響楽団定期演奏会でも使われます。
京都市交響楽団常任指揮者兼ミュージック・アドヴァイザー
広上 淳一
今回の定期演奏会では、マーラーの交響曲第7番「夜の歌」を、京響常任首席客演指揮者・高関健氏の補筆版により演奏させていただきます。高関氏は長年、指揮者という立場から様々な作品の学術的研究をされてきているスペシャリストです。東京藝術大学の教授も務めておられて、昨年の藝大フィルハーモニア管定期演奏会ではマーラーの交響曲第7番を、新全集版で疑問に思われた箇所をご自身で調べてチェックされた「補筆版」により演奏なさいました。私がマーラーの交響曲第7番を指揮するのは、日本のアマチュアオーケストラだけの経験で、今回で2回目ですが、高関氏を尊敬する私としては、ぜひとも高関氏の補筆版を勉強させていただいて、それがいかに理にかなったものであるかということを聴衆の皆様にお聴かせするとともに、ご自身ではなく第三者である私が高関氏の版を演奏することで、高関氏の作品研究の価値がより高まればと願っております。
高関氏は、譜面や印刷上の誤植だけでなく、作曲家がおそらく間違えたのではなかろうかというようなところまで、演奏家・指揮者の立場から、非常に論理的に調べていらっしゃいます。指揮者としてこれだけの能力を持つ人は世界でも数えるほどしかおらず、日本では高関氏がナンバーワンだと私は思います。従いまして、シーズンを締め括る演奏会で、我々の指揮者陣の一人である高関健氏補筆版のマーラーを演奏し、高関氏が積み上げてこられた研究を世にご紹介することが、今回この版で演奏する意図であり、私の気持ちです。作品のことだけを考えて、素晴らしい仕事を黙々と続けてこられた高関氏による補筆版。高関氏の研究の成果が、今の京響の力を擁して間違いなく発揮されることと確信しております。
京都市交響楽団 第632回定期演奏会
2019年3月16日(土)14時30分開演@京都コンサートホール
◆グスタフ・マーラー 交響曲第7番 ホ短調
[※新全集版・高関健補筆版]
指揮:広上淳一
コンサートマスター:泉原隆志
明日に2日目の定期演奏会を控えていることもあり、感想は「とても素晴らしい演奏でした」の定型文にとどめておきますが、今回用いられたスコアに関して私なりの受け止め方を。プログラムに執筆された高関さんの解説と広上さんのプレトークから、まずOSバージョンアップを連想しました。マーラー自身による初演のものをVer. 1.0、旧全集をVer. 2.0、近年の新全集をVer. 3.0と例えるなら、高関さんの補筆はさしずめVer. 3.1といったところでしょうか。高関さんのコラムや広上さんのお話から察するに、初演直後からのマーラー自身の訂正や改訂はVer. 1.1β、1.2β、1.21β、1.211β、1.3β、1.31β、1.4β…みたいに細かく頻繁に行われていて、不幸なことにそれらマーラーの作業の跡は分散されたまましばらく放置されて、1907年のベルリンでの楽譜出版や1960年の国際マーラー協会による旧全集ではあまり反映されてなかったようにも思われます。
第6交響曲において第2楽章・第3楽章の配置が長らくスケルツォ→アンダンテで出版・演奏されていながら、21世紀に入って国際マーラー協会がアンダンテ→スケルツォが最終決定だとリリースしたことがあったほどですから、第7交響曲においても旧全集版まではマーラーが思い描いてた最終決定が見えていなくて、校正が不十分なままでリリースしていたのではないでしょうか。
プレトークで広上さんが第7交響曲に関して、昔は不当に評価が低かった旨のお話をされてたように覚えてまして、(実際に私は未読ですけど)ドイツの哲学者テオドール・アドルノが第7交響曲を失敗作とみなしてたり、日本でのマーラー入門書として最良の柴田南雄『グスタフ・マーラー』[岩波新書・黄]でも控えめな筆致ながらも芳しくない評価をする記述があります。ですが、広上さんが仰ったように見方を変えれば第7交響曲も第5交響曲・第6交響曲とはまた違った良さを見い出せますし、新全集版と高関補筆版――メンゲルベルクのメモを充分に参考にという下りは大きな驚きとともに感慨深さもひとしおですが――による京響の演奏は実演ならではで、まずは耳で今まで何か取っ散らかった印象のあった曲が整理されたように聴こえ、目ではTpセクションでロータリー式メインで時々ピストンと使い分けてあったり、Obでベルアップをスッと下げるのと少しゆっくり下げるのと小技があるなど、視覚的に新たな発見が(あったかもしれない見逃しも含めて)もいろいろあって良かったです。
今まではどこか掴みどころが無い印象を持っていたマーラーの第7交響曲ですが、その掴みどころの無さを覆し、聴いていてストンと腑に落ちたと思えるようになった契機が、クラウディオ・アバド&ルツェルン祝祭管弦楽団による音楽祭ライヴ収録の映像でした。真剣かつ心底楽しそうにタクトを振るアバドと、彼にすぐさま同期して真摯にカツ心底楽しそうに演奏するオーケストラ・メンバーの表情が感慨深いです(クラリネット1番を担当していたザビーネ・マイヤー女史のクールビューティーな印象とは異なり初心に返るような表情の豊かさとボディランゲージの変化が私的には一番の驚き)。
我々はこれまで、“バーンスタインのマーラー”にあまりに毒されすぎたのではないでしょうか。根っからのほぼイスラエル人のようなバーンスタインと彼が押し付ける“ユダヤ性”とは裏腹に、マーラーは19世紀の中東欧の風土で育ったドイツ語を話すオーストリア帝国民です。アバド&ルツェルン祝祭管のライヴ映像で特に第5交響曲・第6交響曲・第7交響曲の器楽オンリーな3曲は、マーラーが第一に何を念頭に置いて作曲したのか、それを私に教えてくれた気がします。
バーンスタインのように何が何でも物語性に結びつけるのは誤りであり、この3つの交響曲は現代管弦楽を用いた純粋な音楽表現の可能性を極限まで拡張するための壮大な実験、これが第一かつ最大の目的ではないだろうか?その実験の成果を何の予断も持たずに受け取ることが、まずは聴き手に求められることではないのか?
耳から入ってくる音響だけでなく、様々に工夫が凝らされた数多くのギミックから得られる効果を視覚で、全身で感じ取ることが肝要で、物語性は極力排除して目の前のライヴに集中すべきではないだろうか?
高関健補筆版によるマーラーの第7交響曲を京響の定期演奏会で聴いてて、そんなことを改めて考えたりしました。要は「楽しんだらええねん」・・・残念なのは今回の定期演奏会を録画どころが録音もなかったこと。マーラーの最新校訂、それも日本人が手掛けた楽譜を日本のトップランクのオーケストラが演奏すること、これを撮ってない・録ってないなんてもったいないにもほどがあります。
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