「聖書に書かれていることだって、必ずしもそうとは限らない」?――意外と新しいらしいユダヤ教の起源

世界中の主要メディアから記事をピックアップし和訳して紹介しているクーリエ・ジャポンより、イスラエルのハアレツ紙が掲載した、ユダヤ教の始まりについて新説を唱えたというイスラエルの考古学者でアリエル大学のヨナタン・アドラー教授へのインタビュー記事。

アドラー教授は最近『ユダヤ教の起源(原題“The Origins of Judaism: An Archaeological-Historical Reappraisal”・未邦訳)』という著書をイェール大学出版局から出版されたばかりとのことで、この著書でご自身の新説を唱えたようです。

起源の時期が思ったよりも新しいこともですが、生まれはじめた頃の古いユダヤ教が今のような男性優越の一神教ではなく多神信仰だったのでは、という問題提起がとても興味深いです。未邦訳でも英語版で読みたくなるところですが、他に優先順位の高い本がまだまだ山積み・・・

Yonatan Adler『The Origins of Judaism: An Archaeological-Historical Reappraisal』

 

「ユダヤ教」はいつ生まれたのか? 新説を提示したイスラエルの考古学者に聞く
【クーリエ・ジャポン(ハアレツ) 2022年11月30日】

「ユダヤ教」はこれまで考えられてきたよりも後の時代に生まれたとする新説を唱え、学界に波紋を投げかけているイスラエルの考古学者がいる。イスラエル紙「ハアレツ」が、その根拠について本人に聞いた。


〔※写真:エルサレムにある「嘆きの壁」前で朗読される律法(トーラー) Photo: Godong/Universal Images Group via Getty Images〕

 

ユダヤ教はいつ生まれたのか? 伝承によれば、3000年以上も前にシナイ山で生まれた。聖書の最初の五書である律法(トーラー)に収められている十戒とその他もろもろの法を、神がモーセに授けたときだ。

大方の研究者はずいぶん前から、「出エジプト」とシナイ山での啓示を創設神話として片づけてきた。そのため、この最初の主要な一神教がいつ、どのように生じたのかという問いが残されている。さていま、その問いにまつわる新説が学界に衝撃を与えている。

紀元前2世紀になるまで、古代ユダヤ人が律法を守っていた、あるいはそもそも知っていたという歴史的・考古学的な証拠はないことが大規模な再調査からわかったと言うのは、イスラエルのアリエル大学で考古学を研究するヨナタン・アドラー教授だ。米イェール大学出版局から出版されたばかりの『ユダヤ教の起源』(未邦訳)の著者でもある。

そこから示唆されるのは、われわれがいま知るユダヤ教が比較的あとに大衆的な宗教になったということだ。それはユダヤがハスモン朝に支配されるようになってからであり、イエスの誕生から2世紀もさかのぼらない頃の話になる。

律法はかなり後代になるまで守られなかった?

ユダヤ教のルーツは、キリスト教とイスラム教が世界に拡大したこともあり、とくに19世紀以降は批判的研究の対象になってきた。

こうした研究の大半で重視されていたのが、聖書物語の歴史性を解明すること、また旧約聖書に収められているさまざまなテキストがいつ書かれたのかを理解することだった。

こうした研究は、聖書テキストの起源やその後の編集について貴重な洞察を与えてくれる。しかし一方で、戒律がひとたび書き記されれば自然に人々に知られ、あまねく順守されるだろうと仮定してしまう、決定的な欠点も抱えているとアドラーは言う。

アドラーは新著で、これまでと異なる方法でこの宗教のルーツを研究した。聖書以外のテキストと考古学的な遺物からの情報を照合し、いつユダヤ人たちが一斉に律法の戒めを守りはじめたのかを理解しようとしたのだ。

「ユダヤ教の原則はもっと古く、聖典になったテキストももっと古い可能性はありますが、私がここで問うているのは、人々がしていたことです」とアドラーは言う。

「もしかすると、律法がどこかの書棚に何世紀も眠っていて、ほとんどの人がその存在を知らなかったのかもしれません。かなり後代になるまで、人々は律法を守っていなかったのです」

「聖書に書かれていることだって、必ずしもそうとは限らない」?

アドラーは、古代のテキストや考古学的な記録のなかに、われわれが知るユダヤ教の手がかりを探した。一神信仰、偶像の排除、食物・清浄規定の順守、安息日や過越といった祝祭の慣習などだ。

アドラーの研究はおもに、ユダヤのペルシャ時代とヘレニズム時代を焦点としている。紀元前6世紀の前半に起こったバビロン捕囚が終わってからあとの時代だ。

調査範囲をバビロン捕囚後とした理由のひとつは、「第一神殿期」(バビロニアが紀元前586年にエルサレムと第一神殿を破壊するまでの時代)に古代イスラエル人が実践していた宗教が、今日われわれが知るユダヤ教とはかなりかけ離れたものだったと大半の学者が合意しているからだ。

たしかに、イスラエル人は聖書で「ヤハウェ」として知られる主神を礼拝したが、ほかの神々も崇め、人間の形をした像を大量に造り、聖書が認めた、エルサレム神殿での儀式を中心にすることも無視していたようだ。

そういうわけで、多くの学者は、律法が「第二神殿期」になってようやく、ペルシャの支配下で、ユダヤ人たちに広く知られるようになったと結論づけてきた。聖書自体が「エズラ記」と「ネヘミヤ記」でそう語っているというのが、そのおもな理由だ。

書記官エズラが律法をバビロニアからエルサレムに持ってきて人々に読み聞かせるまで、ユダヤ人は律法を知らなかったと物語られている(「ネヘミヤ記」8章1〜2節)。

「聖書に書かれていることだって、必ずしもそうとは限らない」というガーシュウィン兄弟の歌にあるとおりだ。

事実、ペルシャ時代、さらには初期ヘレニズム時代のユダヤ人が聖典の規定を守っていたり知っていたりした証拠はほぼ、もしくはまったくないとアドラーは指摘する。

ユダヤ教は「一神教」ではなかった?

われわれが知るユダヤ教の礎ともいえる一神信仰だが、ペルシャ時代のユダヤ人は、聖書に出てくるヤハウェを筆頭とするあまたの神々を礼拝し続けていたようだ。

紀元前5世紀、エジプトのエレファンティネ島やバビロニアにあったユダヤ人共同体のなかで書かれたテキストでは、「すべての神々」の祝福がよく引き合いに出されている。

そうした神々のなかには、おそらくヤハウェの配偶者だった女神アナトに当たると思われるアナトヤフや、エルサレムの北にあるベテルの礼拝所とつながりがあるかもしれないエシェンベテルも含まれる。エレファンティネ島のユダヤ人たちがヤハウェとその二神に献金したことを記録した手紙すらある。

ユダヤの地でも、像のモチーフが硬貨に使われていた例はたくさんある。翼の生えた獅子、ひげを生やした男性の肖像、座した神(おそらくヤハウェ自身)、ギリシャの女神アテナの肖像まであると、アドラーは自著で述べている。

こうした硬貨は、ペルシャの君主の命で鋳造されたのではない。「祭司ヨハナン」や「統治者エヘゼキア」といったヤハウェ教徒の名をもつユダヤ人の当局者の名が入っているのだ。

ユダヤ教はいつ誕生したのか?

像のイメージがユダヤの硬貨から消えるのは、紀元前2世紀の後半、ハスモン朝の祭司王ヨハネ・ヒルカノス1世の下で硬貨が鋳造されるようになってからのことだった。

そのときまで、律法の第一戒(ヤハウェだけを崇拝すべし)と第二戒(像を造るべからず)の根本的な規定はまったくもって知られていなかったか、無視されていたかのようだ。アドラーが調べた限りでは、ユダヤ教を象徴するとされる事象の大半で同じパターンが繰り返されたという。

考古学者による先行研究では、ユダヤ人たちが遅くともペルシャ時代まで、食物規定に反する魚を食べていたことがすでに示されている。ミクヴェ(ユダヤ教の沐浴場)やシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)が現れるのは紀元前2世紀以降であり、それ以前に安息日や過越祭りが守られていたというはっきりした文書的な証拠はない。

アドラーは自身の結論について慎重であり、考古学的・歴史的な記録では特定できない小集団が、ペルシャ時代か初期ヘレニズム時代に律法を何らかの形で守っていたかもしれないという可能性を除外してはいない。

「それ以前にユダヤ教がなかったと聖書にかけては誓えません。私が言えるのは、とくにペルシャ時代にその証拠がなく、反証がいくらかあるということだけです。ですから、紀元前2世紀がユダヤ教の誕生の舞台としてはより可能性が高いわけです」

ユダヤ教が誕生したというハスモン朝とは?

紀元前2世紀、ユダヤ人は祭司王朝ハスモン家に率いられて、ギリシャ系のセレウコス帝国の支配に対して反乱を起こした。

ハヌカー祭りで記念されるこの戦いは、ユダヤ人に律法を捨てさせ、支配的なヘレニズム文化に同化させたがる者に対する勝利として記憶されている。

だが、その反乱より前には誰も律法を守っていなかったようだとすれば、その戦いはむしろハスモン家が権力を掌握し、ユダヤの独立を主張するためのものだったのではないかとアドラーは疑う。

それを後づけで聖戦としてでっち上げ、聖書の律法と創世物語によって築かれた共通のアイデンティティのもとにユダヤ人を団結させようとしたのではないかとアドラーは推論する。

パレスチナ全土が神からイスラエルの民に与えられた土地だとする聖書の領土権の主張が、のちのハスモン朝の拡張主義に都合のいい正当化を提供することにもなった。ユダヤ人が住んでいなかったイドマヤなどの地方を掌握した、ヨハネ・ヒルカノスのもとではとくにそうだったとアドラーは指摘する。

律法はもっと昔からあったはずでは?

だからといって、国家的な後ろ盾のあるこのハスモン家の宗教が、それ以前のユダヤ人の慣習や信仰とまったくつながりがなかったということにはならないし、律法は古代イスラエルの初期の伝統を多く取り入れてもいただろうとアドラーは付言する。

アドラーによれば、その一例となりうるのが、割礼だ。何世紀も前から、イスラエルだけでなく、エジプトなど近隣の国々でもなされてきた慣習だ。

「古代ユダヤの宗教は紀元前2世紀より前からありました。アラム語とヘブライ語が使われ、神殿があり、祭司も動物犠牲もありました。しかし、彼らは律法に従って犠牲を供えていたのか? 律法を守っていたのか? そうしていたというしるしがないのです」

たしかに、聖書は古代イスラエル人が神の律法に背き、罪を犯す話で満ちている。ならば律法が事実、ハスモン朝よりずっと前から国法であり、歴史的・考古学的な証拠は律法が守られていなかったことを反映しているにすぎないという可能性はないのか?

「歴史的な観点からすると、ユダヤの大衆が紀元前2世紀より前に律法について知っていたという証拠はありません」とアドラーは言う。

「民が律法を守らなかったというのが聖書の物語そのものです。その物語は本質的に正しいのですが、それはあくまでイスラエル人が律法を守っているべきだったと考える人たちの視点から語られたものなのです」

聖書テキストの記者や編者は自分たちの意図に添う物語を作り上げ、エルサレムがバビロニア人の手に落ちたことなど特定の歴史的な出来事を、妬む神による神罰として解釈したのだ。

聖書テキストに後代の懸念が投影されている?

聖書に描かれた過去への憧れはたしかにハスモン朝イデオロギーの一要素だったと言うのは、テルアビブ大学とハイファ大学の考古学者であるイスラエル・フィンケルシュタイン教授だ。

イスラエルの優れた聖書考古学者のひとりであるフィンケルシュタインは、われわれが今日知っているユダヤ教の起源はハスモン朝ユダヤにある、とアドラーに同意する。

聖書テキストの一部がすでに第一神殿期に書かれていたという証拠はあるものの、「それはユダヤ教を描いたものとは言えず、むしろユダ王国の神学と王家のイデオロギーを反映している」とフィンケルシュタインは言う。

ペルシャ時代のユダヤにおける聖書テキストの作成は大半の学者が考えてきたよりもはるかに限られており、一方でハスモン朝の影響が旧約聖書の複数箇所に見られることは明らかで、とくに「ネヘミヤ記」や「歴代誌」がそうだとフィンケルシュタインは指摘する。

たとえば、「エズラ記」と「ネヘミヤ記」はユダヤ人が国内に住む外国人や非ユダヤ人の女性を娶(めと)ることへの懸念を示している。

「ペルシャ時代の小さいユダヤに『ほかの人たち』はいませんでしたが、紀元前2世紀の半ばから始まるハスモン朝の拡大しつつあった領土には多くの『ほかの人たち』が実際にいたのです」とフィンケルシュタインは言う。

つまり、ペルシャ時代の異なる民族間の結婚をめぐる話は、遠く離れた伝説的な過去に時代錯誤的に投影された、もっとずっとあとの懸念を反映しているのだ。

なぜユダヤ教の起源を知る必要があるのか?

フィンケルシュタイン以外の学者は、アドラーの結論をそこまで支持していない。

「彼はとてもミニマリストなのです」と言うのは、バル=イラン大学の考古学者アレン・メイアー教授だ。

「イスラエルの第一神殿期の宗教は私たちの知る後代のものとは大きく異なりますが、ユダヤ教の起源は、唐突な分断ではなく進行形の発展の過程にあると私は考えています」

たとえば、ユダヤ人はペルシャ時代に硬貨に像を使ったが、その前の鉄器時代にどこにでもあった小像はほぼ姿を消したのであり、それは偶像を嫌う兆候の萌芽ともとりうるとメイアーは指摘する。

「そこに見られるのは、ゆっくりとした変容です。われわれの知るユダヤ教はヘレニズム時代になってようやく現れますが、第一神殿期にまでさかのぼり、それから徐々に大変化を遂げた基礎となる底流が見られます。バビロニアによってユダが破壊されてからはとくにそうです」

ユダヤ教がいつ発生したにせよ、律法とその順守の歴史的なルーツを批判的に研究することは、聖書テキストの価値をおとしめるものではないとアドラーは強調する。

「われわれには律法があり、信仰だけでなく、揺りかごから墓場まで昼も夜も実践する生きたアイデンティティがあるということが、ほかの文化が消えてもこれほど長くユダヤ民族がいかにして生き残ってきたかを明らかにしているのかもしれません。だからこそ、いつ人々が最初に律法を守りはじめたのかを知ることがすごく重要なのです」

さらに、ユダヤ教のルーツをめぐる探求は、そこから派生したほかの一神教、つまりキリスト教とイスラム教を理解するための鍵にもなるとアドラーは言う。

「ユダヤ人は世界の人口のなかでとても小さい割合を占めているにすぎないけれども、ユダヤ教の始まりがその後の2000年の歴史を動かすことになります。過去2000年間の人類史を理解したければ、それがどう始まったかを知る必要があるのです」