私がフォローしている方の中で、古代ケルト文系などに造詣の深い m-take[@takeonomado]さんというHNの人がいらっしゃいまして、古代ケルトについての興味深いツイートを投稿していたのを見かけて大いに引き込まれましたので、自分のメモ帳がてら記録をば。
ブラチスラバ博物館でケルト特別展を開催中。これだけで、今日はお腹一杯になりました。説明を丹念に読み込むとちょっとした教科書並みの量。 pic.twitter.com/r27UX5bKB4
— m-take (@takeonomado) August 28, 2021
【自分用メモ】
今まで知らなかった事がたくさん。
・BC58のアレシアの戦いで全ケルト連合がローマの支配下に入ったわけではなく、ボイイ族はその後10年以上トラキア人との戦いを続け、最後に降伏する。
・ボローニャもボイイ族の街だった。— m-take (@takeonomado) August 28, 2021
・テクトサゲス族はデルファイ・アンカラ襲撃だけでなく、ツールーズ、マルセイユ方面も支配していた。
・ブラチスラバはケルト族の貨幣鋳造の中心地だった。 pic.twitter.com/XlRDAGi4vl— m-take (@takeonomado) August 28, 2021
・ブラチスラバ城の地下には、ケルト族のプリンスがローマ人の職人を招いて作らせた宮殿の遺構があった。
(ある時は交易、ある時は戦争。これは古来から変わらぬ国家間の関係。) pic.twitter.com/XxSLbbNiWz— m-take (@takeonomado) August 28, 2021
シーザーがガリアを平定するのはBC52年だけど、ケルト族の衰退とローマの勃興の力関係のクロスポイント。BC387年アッリアの戦いでローマは負け。そのまま半年以上もローマは占拠、蹂躙されるけど。デルファイ襲撃、アンカラ占領まで、そこがケルト族(国家)のピークだったと思う。
— m-take (@takeonomado) August 28, 2021
ケルトは野蛮な部族ではなく、言語と宗教(神殿都市さえ)を共有した都市国家群だったとの考察を、昨年しました。 https://t.co/LmMV1K3FG0
— m-take (@takeonomado) August 28, 2021
昨年末「ケルト発祥の地」として有名なハルシュタットを8年ぶりに訪問。紀元前1500年、ヨーロッパの青銅器時代から岩塩の採掘が行われた場所。ケルト人は塩という貨幣にも匹敵する貴重品で富を蓄え、鉄器という最先端技術も取り入れ、西へ南へと移動、拡大していった。これが100年来の定説。 pic.twitter.com/itutsNYAhw
— m-take (@takeonomado) August 9, 2020
その後、紀元前5世紀頃、ケルト文化の中心はスイス、ヌーシャテル湖北岸のラ・テーヌに移行、発展を続けるが、BC52年カエサル率いるローマ軍と衝突、敗れ、ガリア全域がローマ帝国に組み込まれ。さらにAD60年頃、ブリタニアではケルト女王ブドゥカの反乱が平定され帝国領へと。同じく100年来の定説。 pic.twitter.com/SlMhbSi9KW
— m-take (@takeonomado) August 9, 2020
ケルト人は文字を持たず勇敢だけど大酒飲みな野蛮人。彼らの文化はヘロドトス等ギリシャ人の歴史書、カエサルのガリア戦記などから一方的に知るだけ。(神官ドルイドは記録に文字を使っていた)
なおハルシュタットとラ・テーヌの位置関係。
(by Dbachmann, CC BY-SA 3.0) pic.twitter.com/sTWojScxLB— m-take (@takeonomado) August 9, 2020
その後、ケルト人はどんどんと西へ追いやられ、ウェールズからアイルランドに移住。ローマ化されずに生き残ったケルト文化の上に、独自のキリスト教文化が花開き、ヨーロッパ・キリスト教の根幹の一つとなる。これまた100年来の定説。(ケルズの書、トリニティカレッジ博物館) pic.twitter.com/5CNHl0GueK
— m-take (@takeonomado) August 9, 2020
100年来定説のケルト史を4ツイートという暴挙!そして今これら局所的には正しくとも、大きな流れは全く違う様相を顕して来ている。
自分の夢想する結論は以下の通り。
1.ケルト文化はギリシャ・エトルリアと同規模の文明だった。
2.ケルト文明はヨーロッパ文化の深い基底として今も存在する。— m-take (@takeonomado) August 9, 2020
ハルシュタットのケルト博物館、この説明文で軽く腰を抜かした。
「紀元前400年頃、ケルト人の侵入が始まります」えっ?
従来の「ハルシュタットはケルト人発祥の地」を軽く完全に否定してる。ここはイリュリア人の街だったという事ですね? pic.twitter.com/9Xh0j3mLU3— m-take (@takeonomado) August 9, 2020
1953年、フランス片田舎のケルト人墳墓から1000リットル以上のワインが入る、高さ160cm以上の青銅器製の壺が見つかった。取手にはメドゥーサ、上にはアルカイックスマイルの女神、周りにはスパルタのヘルメットの戦士。後に紀元前530年頃、南イタリアのギリシャ植民市で製造された壺と判明。 pic.twitter.com/rsXAmRHnsw
— m-take (@takeonomado) August 9, 2020
ギリシャ植民市からの輸入品だけでなく、ケルト独自の驚異的なほど細密な金製品が、墳墓の女性(VIXの貴婦人と呼ばれる)の首に巻かれていた。ライオンの下の三重の波模様はそれぞれ2mmもない。最後のひらひらは0.3mm程度。裸眼で本当に彫れたのか? pic.twitter.com/iL1QxLZm0i
— m-take (@takeonomado) August 9, 2020
ラテーヌ文化って紀元前450年頃からでしたよね?
その50〜100年前に、ラテーヌ文化に勝るとも劣らない、ケルト文化が存在していた。ケルト人が東から西へ移動したという説も、ラテーヌ文化をケルトの発展に物差しにする説も、成り立ちませんよね?— m-take (@takeonomado) August 9, 2020
VIXの貴婦人、その墳墓には、エトルリアのグリフォンの壺、バルト海からの琥珀、ギリシャからの陶器などが一緒に、整えて入れてあった。紀元前530年頃のケルト人は既に地中海とバルト海を結んで交易の中心にいたという事実。
Musée du Pays Châtillonnaishttps://t.co/f92JJNFbKl pic.twitter.com/DJ43SxgIYp— m-take (@takeonomado) August 9, 2020
紀元前530年、ローマはエトルリア人の王に支配されたままの小さな街。(共和政開始が紀元前503年)。エトルリア、ギリシャ、フェニキア、それぞれの都市国家が地中海の覇を競いながらも、経済発展が進んでいた時代。
— m-take (@takeonomado) August 9, 2020
VIXの貴婦人(おそらく女王)はどんな「集落」に住んでいたのか?最近、発掘調査が進んで見えてきた姿は、素材は木材ながらも、もはや立派な城砦都市。 pic.twitter.com/xl2iIJlwXb
— m-take (@takeonomado) August 9, 2020
神殿と推定される建築物は、高さ20m、奥行き40m以上。
ガリア戦記の「大酒飲みの野蛮人」がいかに酷い偏見であった事か。しかも同時期のローマはエトルリア人の王に支配され、沼地だらけの貧相な都市。 pic.twitter.com/41cG5xNUNo— m-take (@takeonomado) August 9, 2020
ちなみに、紀元前4世紀になってもローマはケルト人の敵では無かった。紀元前387年のアリアの戦いで主力軍団が壊滅し、ローマは半年以上にわたりケルト人の好き放題にされ、和解金でほとんどの金を持ち出される始末。
— m-take (@takeonomado) August 9, 2020
この敗北は、ローマが軍団の構成、戦法などを一から見直し、その後の帝国への基礎を再構築するきっかけとなった。しかし、逆にケルト人がローマを殲滅させていた可能性も十分にあった訳で、そうならばローマ帝国は歴史に生まれていなかった。
— m-take (@takeonomado) August 9, 2020
VIXの貴婦人が存在した城塞都市は正に紀元前6世紀の「都市国家」。そして、このような都市が既に幾つも発掘され、その王族の埋葬の方法や、副葬品は類似性が高い。
ホッホドルフの王子https://t.co/5wb1Q4Tuee
ラボーの王子https://t.co/s1go0ivhxU— m-take (@takeonomado) August 9, 2020
ケルトは野蛮な蛮族じゃない。この高度な都市遺構。 https://t.co/lECwy6pJ18
— m-take (@takeonomado) August 28, 2021
ビブラクテ、発掘された遺跡は、後世の歴史書の言う、ガリア(ケルト)は未開の蛮族という偏見を木端微塵にする。この壁の構造、浴場跡、完璧な下水施設。何より、この強固なコンクリート。シーザーが戦ったのは、もう一つの高度な文明何だよ。 pic.twitter.com/PScMnycNuo
— m-take (@takeonomado) July 10, 2021
この壁の上には木組み、漆喰などの壁があり、様々な構造物が乗っていた。(参考のため他の遺跡のものも)このような城砦都市=オッピドゥムは現在分かってだけでヨーロッパに200、その中でもビブラクテのように巨大なものは20ほどあったという。 pic.twitter.com/7T16F5bJvQ
— m-take (@takeonomado) July 10, 2021
ケルトは野蛮な蛮族じゃない。これがケルト遺跡で発掘されたコインの出土地。(ビブラクテ博物館)「貨幣だけ」を腰蓑野蛮人が採用したなんてあり得ない。貨幣を鋳造し、流通させる。その背景にどれほどの文化資本があった事か。ローマの歴史修正もいい加減にしろという感じ。 pic.twitter.com/cNURCwYL4b
— m-take (@takeonomado) August 28, 2021
西洋人が自らの文化母体と誇る古代ギリシャも突然生まれた訳ではない。南はミノア文明、ミケーネ文明以降の地中海青銅器文明。北はトラキアなどステップ遊牧民。東はフリギアなどヒッタイト以降のアナトリア文明圏。それらの時空を紡いだ結び目の一つに過ぎない。 https://t.co/u6z7HwEodq
— m-take (@takeonomado) August 28, 2021
ギリシャ〜ローマ〜中世〜近代という西欧の教科書の文明史観て、もはや何の裏付けも無い御伽話だよね。例えば、この黄金の装飾品、アテネのアクロポリスに飾られ、ハドリアヌス帝のヴィラにもコピーがあったと説明があるけど、明らかにトラキア起源。(ブルガリア国立博物館) pic.twitter.com/obLUYgP2kJ
— m-take (@takeonomado) May 1, 2021
この山羊の皮を被ったディオニソス神もトラキア起源。ディオニソス神はギリシャ神話の中ではホント別格ですからな。 pic.twitter.com/3TKwzZZTa7
— m-take (@takeonomado) May 1, 2021
最古の吟遊詩人オルフェウスもギリシャ神話の枠に収まらない、トラキア起源。かつてはカルト化した宗教にまで発展した。
(アテネ、ビザンチン博物館)
(トルコ、シャンリウルファ、モザイク博物館) pic.twitter.com/FhCyTz1gkw— m-take (@takeonomado) May 1, 2021
古代ギリシャは突然生まれた訳ではなく、南はミノア文明、ミケーネ文明以降の長期間にわたる地中海青銅器時代。北はトラキアなどステップ遊牧民。東はフリギアなどヒッタイト以降のアナトリア文明圏。それら複雑に時空を紡いだ結び目の一つに過ぎないのだよね。
— m-take (@takeonomado) May 1, 2021
オルフェウスの頭にはフリギア帽。そしてミトラの頭にもフリギア帽。
様々な民族の文化が、DNAのように混ざり合い、受け継がれて今がある。(左はメトロポリタン美術館、高さ30cm。右はインスブルック美術館、高さ1m以上) pic.twitter.com/qxjXi8V2o3— m-take (@takeonomado) May 1, 2021
さてとローマへ。ポンペイ近く、同じ噴火で埋もれたBoscorealeのフレスコ画がいつ見てもため息。 pic.twitter.com/l17kxxVU9c
— m-take (@takeonomado) May 1, 2021
さらにため息の連続。 pic.twitter.com/Xg7kRB1Bd6
— m-take (@takeonomado) May 1, 2021
ローマ建国のBC753年は神話の話だけど、エトルリア人の王を追王して共和制が開始されたBC508年が「ローマ独立記念日」と考える。それまでは「エトルリア人に支配されたラテン民族の都市国家」。エトルリア文字は未だに未解読だけど、出自を隠したいローマ人が焚書したに違い無い。
— m-take (@takeonomado) May 1, 2021
メトロポリタン美術館にはエトルリア文明の素晴らしい展示があるのだけど(イタリアより素晴らしいかも)、奥の分かりにくい位置にあるんだよね。
さて、メイン展示の二輪戦車、南イタリアのスパルタ植民市あたりで作られた感じで、エトルリアで作られたんじゃないよね。(って誰に聞けば良い?) pic.twitter.com/6JOVFu5mlr— m-take (@takeonomado) May 1, 2021
いつ見ても魅力的なエトルリアのヴィーナス。えっと、個人的な好みで言うとメトロポリタン美術館の中でピカイチなんですがね。 pic.twitter.com/4ZVDGv1k0U
— m-take (@takeonomado) May 1, 2021
エトルリア初期からの武具なのだけど、明らかにヨーロッパ青銅器時代の共通形に近い。左二つがエトルリア出土(メトロポリタン美術館)、右はそれより200〜300年前のフランス出土(フランス国立考古学博物館、サンジェルマンアンレー)。 pic.twitter.com/UE06nkBUhq
— m-take (@takeonomado) May 1, 2021
類似は武具だけではない、エトルリア文明のものと言われている青銅器は、イギリス〜ポルトガル〜フランス〜ドイツ〜デンマークまで広がった「ヨーロッパ青銅器文明」の共通基盤に思える。
左2枚はメトロポリタン美術館、エトルリア。3枚目はデンマーク国立博物館。4枚目はハルシュタット博物館。 pic.twitter.com/kBP5wd4y3w— m-take (@takeonomado) May 2, 2021
地中海青銅器文明の興亡と終焉は、ミケーネ文明、ヒッタイト、エジプト等を中心に、相互の文字記録も多数あり、BC2000年頃からBC1200年前後の突然の終焉まで。かなり詳細な所まで分かっている。(海の民は最近では原因の一つに過ぎないらしいが) pic.twitter.com/4hqHtbNeE3
— m-take (@takeonomado) May 2, 2021
ヨーロッパ各地を巡ると、ヨーロッパ青銅器時代のシンボリックな共通性、その距離と時間範囲の広さに驚く。左は大英博物館、右はデンマーク国立博物館、青銅の盾。 pic.twitter.com/JScU3JA3lP
— m-take (@takeonomado) May 2, 2021
青銅製の装身具、左2枚はフランス・ディジョン考古学博物館、そしてデンマーク国立考古学博物館、オーストリア・ハルシュタット博物館。 pic.twitter.com/OPBv0A1hOt
— m-take (@takeonomado) May 2, 2021
さらにヨーロッパ青銅器文明の最も幅広く共有されたシンボルである「渦巻き」はヨーロッパ全域に偏在する。
左からイギリス・大英博物館、フランス・国立考古学博物館、オーストリア・ハルシュタット博物館、ブルガリア・国立考古学博物館。 pic.twitter.com/dQEbApZpRS— m-take (@takeonomado) May 2, 2021
これらから導き出される結論。(妄想MAX)
「地中海青銅器文明の興亡と同時期、BC2000年から800年頃まで、現在のアイルランド〜イギリス〜フランス〜ドイツ〜北イタリアさらにはブルガリアまでの広大な地域に、巨大なヨーロッパ青銅器帝国か、もしくは文化基盤を共有する国家群が存在した。」— m-take (@takeonomado) May 2, 2021
文字が存在しない巨大国家は可能なの?これに対する回答は、日本の大和政権、古墳群などが身近な回答と言える。文字がなくても、巨大土木事業も国家運営も可能なのである。
1枚目は卑弥呼の墓と言われる箸墓古墳、2〜4枚目は継体天皇墓と言われる今城塚古墳。 pic.twitter.com/gAfdv7Izi2— m-take (@takeonomado) May 2, 2021
結論を別の言葉で言い換えよう。
「言語と文化を共有する国家群が青銅器時代のヨーロッパに生まれていた。」おそらくそのスケールは地中海青銅器文明に匹敵した。— m-take (@takeonomado) May 2, 2021
最近、BC1300年前後に4千人(以上〜発掘が進むにつれ増える)が戦った跡がドイツ北部に見つる。4千人の兵士が戦う背景には何万人という国家が存在する。ヨーロッパ青銅器時代は決して森に煙る蛮族の時代ではないのだ。https://t.co/219eJc9RO9
— m-take (@takeonomado) May 2, 2021
昨年8月の連続ツイート。
「ケルトも言語と神話(宗教)を共有した都市国家の集合体。ギリシャやエトルリアと同じ、いやシュメールやギョベクリテペまで遡る文明の雛形」 https://t.co/LmMV1K3FG0— m-take (@takeonomado) May 2, 2021
あのツイート時での最後の質問。
「ケルト人は何処からきたのか?」
回答。
「BC2000年からのヨーロッパ青銅器時代、同じ文化を共有する国家群がアイルランド〜ブルガリアまでの広大な地域に存在した。そこからハイネブルグを中心に鉄器や騎馬戦にい対応したケルト民族が、統一連合に成長した。」— m-take (@takeonomado) May 2, 2021
「Celt From West」が現在、論争になっているけど、そもそも青銅器時代に共通文化基盤は出来ていた訳で、大西洋システムのケルトも、大陸側のケルトも、どちらから発生したのではなく、ほぼ同時多発で発生したと考えれば説明がつく。(少し専門的)
— m-take (@takeonomado) May 2, 2021
ギリシャ・ローマは、人類史上においては広大な人と文化の巡り巡る結び目の一つでしかなかった訳です。その後ろにはトラキア、エトルリア。そのまた後ろには広大なヨーロッパ青銅器文明。我々はとてつもない豊穣な歴史の上に生きている。(おしまい)
— m-take (@takeonomado) May 2, 2021
(おまけ)そのヨーロッパ青銅器文明と印欧語族はどのように始まったのか。新石器時代から青銅器文明への変化がどのように起こったのか?DNA考古学を中心にした、この10年の激変は、またのお話。
(本当におしまい)— m-take (@takeonomado) May 2, 2021