丸山真男さんがその演奏を聴いたら何と言うだろう?

何のことかというと、今週東京定期と大阪の425回定期で演奏された大植&大フィルのコンビによるマーラーの5番。
すでに大植さんに見切りをつけてしまってるしとらすには全くの関心外だったのですが、ネットで評判を見てビックリ。
時間を書いてくれた人によると(第1楽章から順に)、
17日@東京[16分、18分、23分、16分、18分]
20日@大阪2日目[16分、19分、24分、16分、19分]
・・・
なんだ、こりゃ?
しとらすなら第3楽章が終わった段階で席を立ってるかも。(ちなみに、私のマーラー体験は高校時代に吹奏楽部の先輩から借りて聴いたシノーポリ盤の5番が最初です)
演奏を聴かずに触れるのは拙いと重々承知しつつも、これらトータルで90分を越す演奏時間を見ただけでも「形式感がない」で一刀両断してお終い(爆)。
丸山真男さんとマーラーってあまり結びつかないのですが、天国でこの演奏を聴いてたらぜひ感想を伺ってみたいです。知識もボキャブラリーも不足する私みたいに一言で済まさず、いろいろと論を紡ぎだして批評してくださるのでは・・・?
ネットでもさすがに酷評が多いようですが、肯定的な意見も見られますし、音楽評論家を名乗る方々にも肯定する意見がありますね(このへんとかこのへん)。
この曲、録音で残っているのを見ても(3・5楽章に大幅カットのあるシェルヘン盤を除けば)だいたい70分前後、ワルター&NYPのモノラル盤が4楽章が7分半に全体で60分強というのを除けば、速いのから遅いのまでだいたい10分くらい、あるいはせいぜい14・5分ほどの差で収まるのではないでしょうか?今時の80分弱まで1枚で収まるCDが2枚組になってるのって見たことないですしね・・・。
ということは、約2~3割増で遅い、ということ。
そりゃぁ評論家先生が仰るように細部までよくわかるでしょうねぇ。ですが、そんな超スローテンポで演奏されて失われるこの曲の美点が一体どれほどになるのか・・・それ以前に、全体構造やら形式感覚やらはどうなるの?!・・・となるわけですが・・・それには触れないんでしょうか?
90分で成り立つならワルターあたりがとっくにやってるだろうと思いますけど・・・実際はその逆みたいなもんですしね。(クレンペラーは5番に関しては録音がないどころか実演もほとんど避けてたらしいですし)
ブタペスト王立歌劇場(当時)3年、ハンブルク市立歌劇場6年、ウィーン宮廷歌劇場10年と務め上げた第一級のオペラ指揮者が、オレ流にデフォルメしたとはいえ交響曲という形式を使って己の表現したかったものを表現したわけで、その中には平行して作曲していた『亡き子をしのぶ歌』などの歌曲のモチーフや民族音楽・舞曲なども盛り込んで、それなりに‘歌’‘リズム’に満ち溢れた作品になっています。
そんな歌の呼吸感やリズムの躍動感が、超スローテンポでは全体の形式感とともに確実に失われるでしょう、おそらく。ややワルツにも似たスケルツォを中心としたシンメトリックな構造も、ぜ~んぶ、おじゃん。遅すぎたら全体がどうとかわかりっこない。
クラシックなんて聴かないよ、という人。
例えばガンダム00の『儚くも永久のカナシ』を
2倍遅いテンポで歌うことを想像してみてください。
歌詞が聞き取れること以外にいいことがありますか?
クラシックも同じです。速すぎても遅すぎてもいいことないです。
クラシックに限らずどの音楽も芸術も、社会も自然界そのものもそう、ある一定の形式なり構造なり秩序なりあるからこそ存在し得るもの。それを破壊してデンデロリンの状態で、いったい何が残りますか?
3年前の4月にフェスティバルホールでやったときは通常範囲に収まる演奏だったんですよ。ホールがあんななんでTpとかのアラが目立ちましたけど(苦笑)、普通にいい演奏でした。
TVで観た定期2度目の『幻想』でもそうでしたが、最近の大植さん、かなりアブナイ方向にいってるのでは?まったくどうしたのかしら?しとらすは全体構造や形式感覚が崩壊した解釈は認めないので、来月の京響定期(マーラーの5番がある)の指揮者が尾高さんでホントによかったです。