今度の4月の京響定期は600回というキリ番になってて、広上さんはメインにリヒャルト・シュトラウスの交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』を据えましたが、前に大友さんが500回定期を指揮した時はアルペンシンフォニーだったんだよなぁ〜と、2人ともモーツァルトの『ジュピター』にリヒャルト・シュトラウスでプログラムを組んで、でもチョイスした曲は違うというのが興味深くはあるのですが、それはさておき、今更とは思いつつも『ツァラトゥストラ』でも聴こうとNMLから探したのがこれでした。
★リヒャルト・シュトラウス管弦楽選集/ショルティ&ウィーン・フィル、シカゴ響、バイエルン放送響【Decca】
→http://ml.naxos.jp/album/00028944061826
ボストン交響楽団[https://www.bso.org/]の音楽監督を1973年から29年にわたって務めておられた小澤さんが全米のためとも言えるグラミー賞で初受賞というのは大いに意外感を持ちましたが(ノミネートは過去に何度かあったそうだが)、そのグラミー賞で全てのジャンル通じてダントツの最多受賞記録保持者ゲオルク・ショルティがシカゴ交響楽団を率いていた時期とほぼ重なっていた巡り合わせの悪さは、これはもう運が無かったとしか言いようがないので仕方ないですね。
今や伝説の人物であるトランペット奏者アドルフ・ハーセスらを筆頭とした世界最強のブラスセクションを擁するシカゴ響の黄金期を築き上げたショルティの40とも言われる受賞歴は、あの米国の寵児バーンスタインですら遥かに凌ぐ記録で、これ塗り替えるミュージシャンなんて今後も出てこないでしょうし…ジャズ界の巨匠パット・メセニーですら個人+グループでまだ20弱なわけですから、如何に優れた音楽家だったかを示しているかと思います。ショルティの評価が未だに日本では実力に比して高くないのは、あまりにもったいないですね。
閑話休題
シャルル・ミュンシュの弟子でもあり、そのミュンシュがボストン響に残した遺産を再興して独グラモフォンや蘭フィリップスに数多くの録音を残し、地元にも大人気だった小澤さんですが、グラミー賞を競う相手がショルティ&シカゴ響ではさすがにやや分が悪かったのは否めないでしょう。そして長らくボストン響のシェフを務めた後にウィーン国立歌劇場の音楽監督を引き受けた時期はクラシックのレコード業界自体がすでに衰退の一途に入っており、彼自身の病気療養とも相まって円盤リリースも減少していました。サイトウ・キネンとの『子供と魔法』は実に4年ぶりのリリースで、そのラヴェルのオペラが米国とは接点のないマイナーな作品であることと指揮者・オケ・合唱・演奏場所が米国でなく日本であることなどを考え合わせると、元来は全米の音楽界のためにあるグラミー賞の今回の初受賞は、NARASから小澤さんへのボストンその他での業績に対する、最初で最後の感謝の餞のように思えてなりません。
でもって、その小澤さんにオペラ指揮者への道を開いたのがカラヤンというのは知る人ぞ知る話で。前世紀なんて特にそうでしょうけど、米国ならいざ知らず欧州ではコレペティトゥアから始めて一歩ずつオペラ劇場での経験を積んでキャリアを築いていくというのが指揮者の出世のメインストリームですが、自分が目をつけた若造がオペラの経験が皆無なことを知って、口酸っぱく「シンフォニーとオペラは音楽という車の両輪だ」とやらせてたらしいですね。公開のTV対談でもオペラやれって説教してたのには笑えましたが(下の映像は1981年のもので小澤さんもいい歳になってきた頃なのにねwww)。
もちろん口で言うだけでなく、カラヤンが1968年のザルツブルグ音楽祭で振った『ドン・ジョヴァンニ』のアシスタントさせるのを手始めに勉強や仕事の機会を積極的に回していたようで、そんな(良い意味でカラヤンのことを見直しましたけど)おせっかい焼きの師匠がいたからこその繋がりで、メシアンの晩年の大作オペラ『アッシジの聖フランチェスコ』の世界初演(1983年11月28日、パリ・オペラ座)を任される名誉を賜り、ウィーン国立歌劇場でイオアン・ホーレンダー総支配人の下で音楽監督を何年も務めたり、毀誉褒貶はあるにしろオペラのキャリアを重ねて指揮者として一層大きく羽ばたくことができたのは何より帝王カラヤンのおかげ。バーンスタイン門下というだけならせいぜいコンサート指揮者ということで名前を売って終わり、ウィーンやミラノでの大仕事とか絶対に不可能なことですよね。
本人がじゃんじゃんレコード録音しまくってただけでなく、佐渡裕や大植英次など日本人の門下生が何人もいて吹聴して回ってるからか、日本ではカラヤンのライバルとしてショルティとともにバーンスタインの名前が大きく採り上げられてるようですけど、実際のところはオペラ知らずのバーンスタインは作曲家としてはともかく指揮者としては片手落ちもいいところでしょうし、客観的に経験値の高さやレパートリーの広さを考慮したらカラヤンとショルティの二大正横綱で20世紀後半の一時代を担ったと言うべきでしょう。
1989年のザルツブルク音楽祭でプレミエとなるヴェルディ『仮面舞踏会』のリハーサル期間中に急逝したカラヤンの代役を引き受けたのは自身の夏期休暇を返上して駆けつけたショルティだったそうですが、この音楽祭とリヒャルト・シュトラウス繋がりでのエピソードに、カラヤンは晩年にザルツブルク音楽祭で『影のない女』の再演をプランしていたけれど、自分の健康状態に万が一のことを考慮して生前中に後事をショルティに託していたとかで、ショルティがカラヤンとの約束を守って実現したのが1992年のゲッツ・フリードリッヒ演出によるザルツブルク音楽祭上演というのがあります。同時代を生き抜き、互いの実力を認めていたからこそのリヒャルト・シュトラウス大作上演ですね。