先日のramonbook[@ramonbookprj]さんのツイートでも採り上げられていたシルヴィア・フェデリーチ(1942年イタリア生まれのアメリカ現代思想家)へのインタビューの翻訳です。
出版社Traficantes de sueñosとFundación de los comunesが企画したフェミニストでマルクス主義者のシルビア・フェデリチのバルセロナ訪問を利用して、EspaiFàbricaのためにマリア・コレラがインタビューを行った。ニューヨークのホフストラ大学教授であるフェデリチは、家事労働の本質と報酬、あるいは、資本主義の発展における重要な要素としての暴力の行使に関する研究で広く知られている。
・・・だそうなのですが、インタビュアーの知的教養水準がとても高いおかげで大変に中身の濃い内容の記事となっています。日本のメディアでは無理ゲー・・・特にマルクスに深く言及したあたりは圧巻だと思います。
記事の最初に触れられている『キャリバンと魔女』は2017年に以文社から翻訳本が出されました。日本フェミニスト経済学会から獨協大学外国語学部非常勤講師の堀芳枝さんによる書評も発表されています。
→http://jaffe.fem.jp/j/wp-content/uploads/2017/09/8-hori.pdf[PDF]
重厚で優れた良書ですので、ぜひ購入して一読することをオススメします。
シルビア・フェデリチ:家事労働とは労働力を再生産するものだ――資本主義、女性、家事労働、賃金、父権制、差別、コミューン――(インタビュー前編)
https://ramonbook.wordpress.com/2016/02/25/silvia-federici/
―『A Caliban and the Witch(キャリバンと魔女)』は、資本が蓄積する過程における重要な要素として女性の搾取に言及しています。女性は最も基本的な資本主義の商品、つまり、労働力の主要な生産者かつ再生産者であったからです。賃金労働者の搾取が定着する上で支柱となったのは女性の無償の家事労働だとあなたは言います。
始めにまず言っておきたいのは、 70年代のフェミニズム運動の最も重要な貢献が女性の家事労働の再定義と再解釈であったことです。家事に対する賃金支払い求める闘争を行い、常日頃から分析されてきた文脈での家事労働の問題を全て検討し直すことを始めた人たちの具体的な貢献のひとつでした。これは特に社会主義の流れの中で目に付くものでしたが、もちろん自由主義の流れにおいて行われました。こうした人たちは、家事労働を資本主義の前段階の世界の遺産でも、社会的な富の創出に貢献しない周縁の活動の一形態でもなく、実質的にそれ以外のあらゆる活動を支えるタイプの仕事とみなすということを始めたのです。
つまりこれは(家事労働が)資本の蓄積の全過程において土台となるということです。総合的に考えると、家事労働とは労働力を再生産するものであり、労働する能力を生産するタイプの労働であるからです。この観点から出発して、私たちは過去の再検討を始めて、資本の蓄積の過程における土台であったこのタイプの労働が、経済活動の外にあるもの、非労働とみなされるようになった状況を理解しようとしました。また、70年代の闘争の間、私たちにとって最も重要な議論のテーマと目標の一つは、これが労働であることを明確にすることだったのです。しかし、それだけではなく、搾取の過程の領域を構築していることも含まれていました。そして、これは男性賃金労働者の搾取よりもさらにずっと強烈な搾取です。私たち女性のものは無償労働なのですから。
これが、女性に何が起こったのか、資本主義の発展過程において再生産に何が起こったのかを理解しようとして、私が歴史的な作業を始めたときに取り入れた観点でした。私はかなり早い段階から、資本主義の貨幣経済がある種の分離、 経済活動のある種の分岐を生み出すことに気がつきました。現実にはこれ(経済活動)が社会的なものから切り離されることは決してないにもかかわらず、古典的な労働とみなされ、資本主義においては賃金労働に変化する「市場向けの生産( 商品の生産)」と、労働をみなされることをやめ、女性の労働と同一視されるようになった「労働力の再生産」に分けられるのです。こうして(労働力の再生産)が女性化されます。
資本主義の始まりから、ジェンダーによる労働の分担が生まれることが見受けられます。労働を実行する主体に従って生産と再生産に分けて、違うタイプの関係を生み出すのです。この観点から私は、二世紀以上に渡って続き、欧州での資本主義の強化において決定的なものとなった魔女狩りの過程を改めて提起しました 。実際、女性労働者を非労働者、資本主義的な見地からは何の価値もない労働力の人間として再定義し、再構築するためには、この女性から力を剥奪する過程が極めて重要だったのです。これが、世界経済の再構築の結果として起こった出来事を分析するときに、私が用い続けている観点です。
―最初の資本の蓄積と資本主義の出現が起こる前に、父権制(=家父長制)が構築された過程について説明してもらえますか?
資本主義は、ジェンダーによる差別を行った初めての制度ではありません。父権制を一般化させないこと、地球上の全ての社会が父権制の社会であったと仮定しないことは極めて重要だと考えています。なぜなら、フェミニズム研究が広がっていくにつれて、例えばアメリカでは、北米の先住民の多くが女性と男性が極めて対等な立場にある関係の形式を有していることがわかってきているからです。
北米の部族にはイロコイ族のように、会議での意思決定、戦争をするかしないかを決めるといったときに女性が大きな力を持っており、最年長の女性たちが共同体の政治的活動において特出した役割を果たしているものがいます。私たちにとって、これがそれ(母権制)なのかどうかを見極めるのは非常に難しいことなのですが、この方向性を示すものはたくさんあります。『A Caliban and the Witch(キャリバンと魔女)』の出版に先立って行った調査の間に、カナダのイヌイット族へのカトリックの布教に身を捧げたフランス人のイエズス会士の文書を発見したのですが、彼はその大部分を男性に女性と子どもを服従させることを教えるのに費やしていました。フランス人宣教師の目には、女性があまりにも力を持ちすぎており、自立しすぎているために、夫が性生活を支配することができないと映ったからです。だからこそ、私たちは極めて慎重にならなければなりません。私たちに届く歴史は勝者によって書かれたものなのです。しかし、大部分が破壊されてしまっているものの、あちらこちらにもう一つの歴史を垣間みることができます。常に細心の注意を払わなければなりませんが、過去にはもっと多くの母権制社会の存在を示すものは数多くあります。
こうしたことを踏まえた上で、資本主義が父権制の再構築を伴ったこと、言い換えれば、父権制的な関係という枠組みにおいて、搾取の方法と状況に従ってこの支配の目的と規則を変えてきたことは明白です。私のシンプルな解釈は、ある社会が人間の労働を搾取するとき、労働力の搾取に基づいているときには必ず、性的な差別があるというものです。女性の身体の支配、再生産の支配はあらゆる形式の搾取にとって土台となるためです。
とはいえ、それを支える個々の関係は変化していきます。そして、資本主義の中で最も基本的な関係は賃金によるものです。これが、私が賃金の父権制について語る理由です。言い換えれば、資本主義の中でこのような不平等を生み出す上で土台となる関係とその定着に必要な条件を作り出しているのが賃金なのです。例えば、賃金があるかないかということ、ほとんどが男性による賃金労働とほとんどが女性による再生産労働の間の違いには並外れた潜在的な力があって、理論の上でも政治の上でも決して社会主義者たちが認識してこなかった数々の機能を実行するために役立つことがわかります。このようにして、賃金は賃金労働者を搾取するためだけでなく、男性の賃金労働者を女性の仕事の監督者へ変える権力の委任によって、賃金労働者を通じた搾取を行うためにもまた、極めて強力なツールになります。このようにして、膨大な量の非賃金労働が動き、賃金はこうしたヒエラルキーの全てを作り出す者となり、不平等を生み出し、搾取を当たり前のようにみせかける役割を果たすことになるのです。
極めて重要な問題であるからこそ、私は賃金の父権制について語ります。なぜなら、賃金は人種による不平等と類似した機能を持っているからです。人種による不平等は総じて賃金労働者と非賃金労働者の間の違いに上に築かれていて、このことは黒人の奴隷制などにも見ることができます。これを明確にしておくことは、対抗運動の創造という観点から極めて重要なことだと思います。資本主義がこれほど多くの社会関係を変化させて、父権制の関係を再構築しなければならなかったこと、資本主義の支配にとって労働者階級におけるこの分断が極めて重要であり続けていることは、当たり前でも、不可避でもないと認識しなければなりません。
―実は現在、女性のストというイニシアティブが進行中です。通常の生産ストライキのさらに先を行こうとするもので、ほとんどの場合、正規雇用の男性賃金労働者によって用いられてきたこのツールを取り戻すために、消費とフェミニズムの社会ストが計画されています。これについて、どう思いますか?
大変に重要なイニシアティブだと思います。何よりもまず、ストライキという概念の脱神話化と再定義を行わなければなりません。例えば、70年代にはフェミニズムの観点から、男性がストをしている間も女性は働き続けているという意味で、ゼネスト(ゼネラル・ストライキ=general strike)という概念はあまり適切なものではないことを私たちは繰り返し提起していました。 私たちは女性がストを行なったときに初めて、ゼネストが可能になるだろうと考えたのです。実際、1975年にレイキャビックの女性が全員ストを行い、街は完全に麻痺状態となりました。隠されたもう一つの工場が、他の人たちが賃金労働を続けることを可能にする、見えないもう一つの組み立てラインが可視化されたのです。
なので、私は様々な観点から女性のストというアイデアは重要だと考えます。家事労働の問題を政治活動の第一線に持ち出したことにおいても、私の意見では放棄されていた国家との交渉と対峙を再び始めたことにおいても重要です。 フェミニズムのアジェンダを方向付けて飼い馴らす上では、 フェミニズムの政治への国連の介入が決定的なものとなりました。最も反体制的な要素、とりわけ再生産労働との関係について問題提起するものを全て遠ざけてしまったのです。なぜ人間の生活の再生産に必要不可欠なこの労働に対する資本主義の評価がこれほど低いのかを考えるとき、私たちフェミニストにとって反資本主義のアジェンダが必要な理由を示すには、これが極めて重要な問題であることに私たちは気がつくことになります。
再生産労働の価値の切下げは、資本主義が構造的に必要としているものです。これは労働の搾取に依存していて、必然的に労働力という生産コストの継続的な切り下げが必要となります。このことによって、労働力の生産が何らかの価値を持つのを否定することが求められるのです。こうして、この労働を行う主体はその価値を切り下げられ、不可視化されます。決して女性は労働者として認識されることがないからです。そして、家事を行うことを拒むと、女性のストとしてではなく、悪い女性とみなされます。
だから、女性のストというアイデアは極めて重要だと思います。率直に言って、子どもたちを生きる価値のある世界に連れてこれるようになるまで、女性はストを宣言して、子どもを持つことなどの活動をやめるべきではないかと私は考えています。
―アレクサンドラ・コロンタイ(訳注:ロシアの革命家・共産主義者)が着手した子育てや家事の共有化についてはどう考えますか? 女性を奴隷のような家事労働から解放するためや社会の再生産の責任の社会化するためのツールとなりうるでしょうか?
再生産労働――子育てだけでなく、高齢者の介護も含めた全てのタイプのケア(世話)や全てのタイプの家事労働――の再編という問題は、本質的で非常に大きな重要性を持つものです。一方で、私たちにはどうやって社会的な富や資源を再生産労働に向けるかという問題があります。今日は起こっているのとは正反対の方向性です。他方では、この労働の再編がありますが、もちろんこれは協業という観点から行わなければなりません。女性の組織化にとって主な障害の一つがまさしく、この労働が行われる孤立した状況であったのですから。
資本主義は再生産労働を工業化する可能性を検討しました。非常に前産業革命的・前資本主義的で、古臭く見える方法を取ったという事実には驚くかもしれませんが、実際のところ、この選択肢は孤立化を進めるという戦略的な決定に応じたものでした。私の理論の一つは、賃金労働の場への労働力の集中は再生産の領域の解体を必要とするというもので、長期に渡って実施された都市整備計画が良い見本です。
例えば、米国では第二次世界大戦後に、都市の郊外、住宅地の創設がありました。 そこに小さな住宅を手に入れることを労働者階級に奨励しましたが、出来る限り工場から離れたところにあり、全ては完全に細分化され連続的なモデルに従っていました。こうした住宅のデザインはまさに人間を分断するためのもので、一日の労働が終わった男性と家族のエネルギーの全てが小さな家の周りに注がれ、そこでは、もちろん、女性は他の女性たちから分断されていました。こうして、私たちには再構築という大きなプロセスが未解決のまま残されています。家と家、家と通り、通りと地区の分離を終わらせるために行わなければならないことです。
私は共有化という問題やコロンタイがこのアイデアに着手した背景に懸念を持ちます。あまりにもボルシェビキの工場のように無機質な建物を思い出させるからです。ボルシェビキは革命の第一期において家事や再生産の作業を共有化する実験を数多く行いましたが、この目標は放棄されました。なぜなら反乱が起こり、労働者たちがこれに反対したのです。私たちは家事労働の工業化バージョンを望んでいるわけでも、細分化された連続的なバージョンを望んでいるわけでもありません。従って、私たちは何か違ったもの、つまり、協業的で社会的であるけれども、工業的な方法で組織されていないものを発明しなければならないのです。
―テレワークによって女性が、総じて全ての労働者が自治を回復できるという期待が広がっています。もしかしたら、私たちは極めて邪悪な釣り餌を飲み込もうとしているのではないでしょうか…。
その通りです。例えば、保育園のサービスです。たくさんの女性が自分の住む地区で自ら組織を作り始めました。しかし、重要な闘争は、そのサービスは外で働く女性だけに向けたものであるべきでないと考えることになるでしょう。家のこと、家事労働に従事する女性には休息時間を取る権利がないと考える人が、まだまだたくさんいるのです。従って、これが非常に重要な第一歩となるでしょう。
次に、これは父親や母親、あるいは子どもの家族にだけ関係するものであってはならず、同時に全ての人びとが共有する問題となるべきです。それだからこそ、協業が大変重要となります。しかしながら、協業を通じて国家との異なる関係を創造することもまた重要です。私たちは富を取り戻さなければなりません。ここで私が言っているのは、再生産コミューンのことです。再生産コミューンの創設は新たな貧困の分配を伴うものであってはならず、これら(再生産コミューン)が闘争の基礎となるべきでしょう。
―明日はコミューンの戦略的領域に関するあなたの講演会があります。このコミューンとは何ですか? この概念に含まれるものは何ですか? 何が共有で、何が個人に属するのですか? 誰がこの線引きを決める正当性を有する主体ですか?
コミューンに関しては様々な潮流があり、一つだけではありません。例えば、中世の欧州のコミューンはアメリカのコミューンとは異なるもので、多種多様な方法で組織されていました。しかし、いかなる場合にも協業と資源の協同管理と協同利用という形式の周囲を廻っていて、そこでは富、天然資源や人間が作り出す富を非商業的なものと捉える考え方が支配的でした。従って、コミューンについて固まったイメージを持たないことが重要です。もちろん、今日私たちが言及するコミューンというのは、私たちが生み出していかなければならないコミューンです。過去に戻ることは不可能です。過去から引き出すことができる重要な唯一のことは、人類の歴史の大分部において、人類は国家という形式でも私有財産を巡ってでもなしに、下からの協業というモデルに従って組織されてきたと知ることです。これが重要なことです。
コミューンという概念には数多くの次元が合流しています。一つは純粋に物質的な富に言及するもの、もう一つはもちろん、問題の活動の非商業的な性質、生み出される富の非商業的な性質に言及するものです。ここで私はコミューンとは関係の問題であるという事実を再び主張しておきたいと思います。コミューンを生み出すモデルが関係のモデルであるということで、人びとが何らかの富を共有するという事実だけを指すのではありません。大変に重要なのは、協業や連帯という問題です。
ある形式の労働と富のコミューン型組織に一定のルールが要求されることは明白です。それだからこそ、いつも私たちは、共同体がなかったり、一定の限界を定める規則がなかったりするコミューンは存在しないと言うのです。こうしたすべてが、集団的な意思決定に基づいています。いつものように、資本主義の中でも、共有のものと個人のものの間の関係について語るときや富について語るとき、私たちは人間に再生産を可能にする富の形式について、従って生産と再生産を通じた集団所有権について語ります。そのことは、例えば、人びとが自分のシャツを所有することができないという意味ではありません。
人びとは自分の歯ブラシすら所有することが出来ないというような方向性で、共産主義を巡って広められた虚偽や恐怖はすべて、本当の問題は人びとが手にしているえんどう豆を獲得する手段を個人の所有物にしたり、私有化したりしないことであること、こうした決断が集団的に行われることを隠してきました。しかし、私が思い描く世界、コミューンの世界は、ネットワークの世界でもあり、孤立した団体や小さな島のようなものではありません。相互交換や幅広いコンタクトを持つネットワークの世界で、常に人びとの決断に基づき、そこでは意思決定プロセスのコントロールは人びとの手にあります。
シルビア・フェデリチ:家事労働とは労働力を再生産するものだ――フェミニズム、奴隷制、ワーキングプア、女性の身体、マルクス――(インタビュー後編)
https://ramonbook.wordpress.com/2016/02/25/silvia-federici-ii/
―『Can the Subaltern Speak?(サバルタンは語ることができるか?)』とガヤトリ・C・スピヴァクは問いかけました。この意味では、私たちは奪われた者たちに、自らの存在の中にヒエラルキーの行使を含んでいるこうした人びとに、声を与えるという矛盾をどのように克服することができるでしょうか? (この矛盾の克服は)彼らが自分の運命を決める能力と行動力を有する政治的主体となるためには不可欠です。どのように私たちはこの垂直性を水平性に変化させることができるのでしょうか?
実は、私にはスピヴァクの問題を理解できないのです。私の考えでは、サバルタンは絶え間なく語っていて、私たちはそれに耳を傾けています。私は今72歳で、その内の40年は運動に関わってきましたが、下からの運動に由来するもの以外で興味深いアイデアを見たことがありません。これは本当です。例えば、家事労働の賃金の話をするときにも、私ならこの50年間で論理的・政治的に最も重要な変革の一つは、第一に反植民地主義の闘いの成果であったと言うでしょう。これが決定的であったことには間違いありません。また、自らの要求を掲げたアフリカの農民たちとその闘いがあります。これらは後に練り上げられて、もっと洗練された理論になりました。例えば、フランツ・ファノンのケースなどです。しかし、突き上げる力は、労働の国際的な分断を揺るがしたこうした偉大な闘いから出現しました。大きな変革となったのは土地の要求を掲げた農民たちの変革であり、工場での変革でした。そして、こうした下からの大きな運動の基礎に関して、後から知識人たちが一つの思想を作り上げるのです。
米国のフェミニズム運動やWages for Housework (家事労働に対する賃金)運動の歴史を見れば、こうしたことがはっきりとわかります。この運動は米国の奴隷制反対運動の直後に動き始めました。なぜなら、(女性たちは)つながりを確立して、奴隷制反対運動に奴隷制という用語の中に自らの状況を見出す能力を付け加えたのです。もちろん、異なる性質を有していましたが。ここから力を奪い取るという意味に辿り着いた彼女たちは、実行に移すことを決意しました。
このようにして、Wages for Houseworkは生活保護で生活していた女性たちの闘争の周辺で設立されました。米国ではこうした女性の大部分は白人だったものの、本当の意味で闘ったのは60年代のWelfare Mothers 運動(生活保護で暮らす母親)の女性たちです。これは主に黒人女性から成る運動でしたが、ブラックパワー運動や公民権運動などの貢献もありました。彼女たちは国家と交渉を始めて、生活保護を変革し、子育ては慈善ではなく仕事であると主張し始めました。そして、理論も確立しました。私たちがWelfare Mothers運動について議論を行うときにはいつも言及する理論です。従って、私たちが彼女たちに声を与えたのではなくて、彼女たちが私たちに声を与えてくれたのだと私は思っています。少なくとも、これが私自身の経験です。
―奴隷制について話しているところで、賃金労働者の貧困、あるいはバーバラ・エーレンライクが『Nickel and Dimed(邦訳『ニッケル・アンド・ダイムド――アメリカ下流社会の現実』)』や 『Bait and Switch(邦訳『捨てられるホワイトカラー』)』で描いたワーキングプアについてどう考えますか? この現象は解放へ繋がるドアとして労働市場へのアクセスに期待することに明らかな矛盾があることを意味し、実際には女性に対して二重の奴隷制を課し、そうすることで女性をさらに上手く支配するためのツールとなっています。
私が属している運動、Wages for Housework運動は、常に賃金労働を通じた解放という考えに反対してきました。もし賃金労働が解放を達成する唯一の方法であれば、男性はすでに解放されているでしょう。この論理は、男性労働者は搾取されていないと仮定することを意味します。私たちが戦略的に賃金労働を受け入れているのは、その必要性が存在しているからです。しかしながら、これを政治的戦略にするのは大失敗でした。第一に、資本主義とは何か、賃金の機能は何かということを隠してしまうからです。賃金は非常に危険なツールなのです。私たちが賃金を必要としてもいいのですが、 まさに賃金こそが資本家階級に人びとを分断することを可能にしてきた方法という点には十二分に注意しなければなりません。そして、これは再生産の分野で多分に起こっており、 この古い搾取の構造を維持するために再生産労働が果たしている機能を見えなくすると考えられます。
30年後の今日、米国の女性の60%が賃金労働の担い手となりましたが、二重の労働で絶え間ない危機に晒されています。 再生産の問題は危機的な状況であり続けており、高齢者の介護、子育て…と仕事があまりにも多すぎるために、女性が抗うつ薬の主要な消費者となっています。自殺未遂の数もまた継続的に増加しています。再生産労働の分野はすべて、重大な危機の真っ直中にあります。女性が二つも三つも仕事を掛け持ちしているのを見かけます。ときには三つの職が必要になるからです。こうした女性たちは子どもや高齢者の世話で身動きができない上に、賃金労働にも従事しなければならなりません。こんな生活を想像してみてください! 私はこうした全ての領域で活動している女性をたくさん知っていますが、抗うつ薬をとることを必要としています。なぜなら、彼女たちの生活は…。
―生きる価値のない生活と化す、でしょうか?
まさにその通りです。米国はあらゆる再生産への支援をカットするところまで来ています。出産休暇すらないのです。確か米国は、世界で出産休暇のない三つの国の一つだと思います。賃金労働と解放の同一視が70年代に果たした機能については言うまでもありませんが、ちょうど同じときに男性賃金労働者の側からの大規模な労働拒否が起こっていました。ちょうどその頃、女性とフェミニストは賃金労働を女性の解放のためのプラットフォームとみなし始めていました。
こうして、女性が労働市場に参加し始めた同じ時期に、あらゆる種類の補助金に対して凄まじい攻撃が起こって、雇用をある種の生活保障としていたものすべてが廃止されていったのです。女性が労働市場に参加したのは、こうしたもの全てが解体されつつあったときでした。私たちにこれが見えなかったこと、進行中の再編成に気がつかなかったために、私たちの闘いと男性賃金労働者の闘いの間の連続性を見出せなかったことは、極めて重大な戦略上の過ちでした。私たちはいまだにそのツケを支払っています。
―ハンナ・アーレントが『人間の条件』で言及したような労働の賛美、または欲望、感情、非生産的な活動といった反生産的とみなされる要素を拒否することへの賛美をどう考えますか? ポール・ラファルグが『怠ける権利』で提起した提案は、こうした賛美に対する一つの解決策や女性がもっと自由な時間を持てるようにする方法になりうると思いますか?
ラファルグ自身が大変に怠け者でした。実際にその妻が彼の十倍彼のために働き、若くしてこの世を去った一方で、彼は生涯一度も働く事がありませんでした。私なら怠ける権利についてではなく、創造的な活動の権利について語るでしょう。多くの側面において資本主義の主要な罪の一つは、子育てのように潜在的に極めて創造性の高い労働を、依存という惨めな状況で行う単調で退屈な恐るべきものに変えてしまったことです。それはあらゆるタイプの活動を取り戻すこと、疎外的にも個別的にも集団的にもならない方法で自ら再生産する能力を取り戻すことだと、私は考えています。こうしたものをこの目で見る事ができたらいいですね。
―では、スペインの中絶の権利に関する法制上のカットについて話しましょう。「妊婦と胎児の保護のための法律」という名称になっていますが、「資本主義的な労働力保護のための法律」と呼んだ方が適切でしょう。この名称自体が示すところによると、この法律は女性を労働力再生産の道具とみなしています。だから、これを保護する必要性があるというわけです。この法律は私たち女性から身体に関する決定権を奪うことで、その身体を国有化することになります。まさに公的サービスの大部分が私有化されている歴史的瞬間に、社会的な再生産が国家の支配下に置かれるのです。
私も全く同じ解釈をしています。こうした全ての偽善は、あまりにも重大で一種のスキャンダルと言えるほどです。未だに(女性を護るためにという口実で)労働力生産の源に対して資本が持つ権利という観点から作られた、完全に女性嫌悪的なこのような法律を承認しようと言うことができるなんて。世界の女性の半分を不妊にしようとする一方で、もう半分に中絶、または妊娠をコントロールする何らかの手段を持つことを禁ずるのは、全くの偽善です。このことが、問題は生命の保護ではなく、女性の身体に関する決定権は自分たちのものだと主張することだと明らかにしています。
こうした身体を生産の道具とみなしており、だから、いくつ、いつ、どんな性質で、どのような条件で生み出すのかを決める者となることを望むのです。つまり、一連の権利を彼らに与えてインドの女性を不妊にするのと同じ人たちが、今度は中絶の権利を女性から奪うのです。このことをいつも念頭に置いておくことは非常に重要だと思います。資本主義の歴史を通じて、国家は常に子宮と身体のコントロールに乱暴に介入してきたのですから。
この偽善について語るのに、米国の例を挙げたいと思います。米国ではドローンに殺害された子どもや世界の資源をコントロールするために企てられた数々の戦争で死んだ全ての子ども、あるいはスペインやギリシャのように親が失業していたり、給与が30%カットされたりする子どもは一切問題にはなりません。こうしたケースにおいては子どもの保護は消え去り、人びとは住む場所を失います。そして、生命の保護は子宮で終わるのか?と私たちは自らに問いかけることになるのです。これが、彼らの政策を全て分析した後にいつも辿り着く結論です。
―魔女狩りの時代には、恐怖が女性を服従させるための主要なツールでした。現在では、美しさやロマンチックな愛という神話的通念といったもっと巧妙な手段があり、それによって女性は自発的に下位の社会的ポジションを受け入れます。
フェミニズム運動は美しさというコンセプトの脱神話化に大きく貢献しました。そうなる可能性が高いとはいっても、女性にとって美しさは「選ぶこと」でも、私たちの身体を飾るときにだけ発揮される創造性でもないことを示したからです。実際、女性にとって美しさは、日々の労働の一部を構成しています。セクシャリティも同じです。賃金労働者の再生産の全過程を構成する要素の一つだからです。このことによって、女性は料理をするだけでなく、セックスをして、喜びも提供しなければならないのです。全ては隠された契約の一部を成していて、だからこそ、女性とその身体の関係性はこれほどまでに自主性を奪われたものとなったのです。美しさは結婚市場に参入するための手段で、これがダイエットや化粧などとともに、大幅に自主性が奪われた私たちの身体との関係を生み出してきました。
現在、これはかつてないほどに有効に作用しています。なぜなら、不運なことですが、私たちが始めた闘争を若い世代が継続していない分野において、このことが確認できると思っているからです。私たちは、手入れをしていない身体に、脚や脇の毛をそのままにしておくことに、大きな誇りを持っていました。それに対して、今、若い女性と話をすると、脱毛していな脇を見せることは生涯ないと言って、私の世代にはとても考えられなかったような話を説明してくれます。私たちは、完全な植民地化に直面しています。美しくいる義務は、家事労働の規律の一部であり、男性との関係に関連した規律に加えられるのです。
ロマンチックな愛は大きな罠です。ロマンチックな愛は「一つになること」を意味し、溶け合ってもう一つの人格になるという崇高な考えに基づいていますが、現実にはあなたが男性の中に消滅してしまうのです。この「一つになること」が現実に意味するのは、女性的なものが一体性と仮定されるものの中に溶け込むことで、ヒエラルキーにほかなりません。いずれにしても、ロマンチックな愛は、米国で起こったある変化によって危機にあると思っています。欧州も同じかどうか私には全くわかりません。米国では現在、若い女性の間に大きな混乱があります。ロマンチックな愛よりも大きな疑念が存在しているのです。若い女性たちは愛が果たす役割を知りません。頭では個人でいなければならないと信じています。これは、職業的なキャリアなどを中心にして自己を築く女性という考えに従ってフェミニズムを解釈したものです。このため、かつてほどには愛や家族、これら全てを両立させようという考えが存在していないことがわかります。もちろん(そうありたいという)欲望は存在し続けていますが、 それとは異なる「現実には愛はそれほど重要ではない」という社会的イメージによって変化しています。
私たちは家事労働者として、あるいは実際に実践するのは不可能である全ての役割をこなす者として女性を称揚するタイプの父権制ではない、新しいタイプの父権制を前にしているのだと思います。結局、男性賃金労働者と結びつく役割が優先されるのです。言い換えれば、女性という概念が示すものが男性に変身する女性、時間の50%は男性として過ごし、残りの50%を女性として過ごす女性となっています。女性であることを放棄せずに、仕事場でも女性でいなければならないのです。70%を男性として過ごすことはできないのですから。結局、女性には極めて困難な曲芸を行うことが要求されます。こうしたもの全てを愛で片付けるのは不可能なところにきている。私にはこのように見えます。
―権利を持たない大量の労働者、労使関係の消滅、労働のプレカリアートなどを有する現在の資本主義の段階において、労働組合活動や労働闘争についてどう考えますか? 伝統的な労働組合活動にはまだ意味を持ち続けていると思いますか? 女性や移民、失業者などの要求に応えるには、どのように順応すればいいのでしょうか?
全ての労働組織はもう一度発明し直されて、再び生み出されなければならないと思います。労働組合は完全に資本主義の必要性と一体化しているのですから。全てとは言いませんが、その多くは労働者にとっての障害と考えられています。最近、労働組合が抵抗しなかった大量解雇のケースがいくつもあることを知りました。解雇された人たちは労働者ではなくなるからです。これは無数にある例の一つに過ぎません。この20年、労働組合は反対して闘争する代わりに、雇用センターの解体を進めることに従事してきました。
新しい労働組織を考えるときに、私たちが学ぶべきである非常に重要な教訓があると思います。労働組合や労働者階級に対する国家の関係に変化が現われ始めたー米国ではニューディール政策によるものでしたー40年代より前の労働組織の機能に注目することです。 20年代には雇用センターの役割を果たすだけではない労働組合運動や労働組織がありました。例えば、工場での抗議活動には共同体全体を巻き込むものがあって、工場の職の斡旋だけでなく、労働災害や共同体、住居などの世話も行う労働者組織があったのです。広い意味で共同体と工場の連続性が非常に強かったのです。ある工場やある職場の労働者の一人がストの実施を決めると、全員が動きました。これがパワーとなったのです。しかし、これは失われてしまいました。
労働組合は、日増しに集団交渉という概念の中の一要素に過ぎなくなっています。このことは、力となっている印象を与えるものの、用いられ方が原因で力の喪失にもなっているのです。 共同体の中に有していた支持のすべてが労働力から切り離されてしまっているからです。従って、私たちは歴史を取り戻して、労働者組織の新たなモデルを考えなければならないのだと思います。労働組織は労働力の値段を交渉するだけでなく、資本主義のさらに先を行く見通しを持たなくてはなりません。こうした見通しを決して持つことがなく、完全に資本主義の地平線の下に屈服している労働組合とは違うのですから。
―完全に女性の再生産労働を見落としていたという、あなたのマルクス批判を手短に説明してもらえますか? 特に、この見落としの原因が何であったのかを説明してください。
これは非常に重要なテーマです。なぜなら、マルクスの中に再生産労働に言及した箇所はほとんどないからです。『資本論』全体でマルクスが家事労働に言及している数少ない箇所は、すべて米国の市民戦争の間の家事について語ったものです。良く知られているのは英国の木綿輸出を終わらせるために米国での戦争が必要であったとするコメントで、これによって木綿工場の閉鎖が生じて、女性工員は家事労働に戻らなければならなくなったと述べています。彼は英国の工場の女性工員が再び家事労働についての基礎知識を学ぶようになるためには、戦争が必要不可欠であったと言ったのです。現実には決して彼が(家事労働を)を語ることはなく、それについて語るときには、労働者階級が再生産する方法について述べて、労働力の再生産に言及しました。労働力は自然に生まれるのではなく、生産しなければならないこと、再生産しなければならないことを認めているということは非常に重要ですが、彼は賃金労働の観点のみから労働力の生産と再生産というコンセプトを捉えているのです。食事や住居、衣服などを買うために使う賃金を受け取る労働者です。しかし、工場の外で行われる労働はそこに含まれていません。
どうしてマルクスはこのことに気がつかなかったのか? 私には二つの説明があります。一つは、寛大な方ですが、マルクスが大作『資本論』を書いたとき、再生産労働の大部分は最小限になっていました。労働者の家族は女性も男性も子どもも、四六時中工場で働いていたことから、再生産労働は極限まで縮小されていたのです。実際に、再生産労働の増加が起こったのは19世紀の終わり、工場での女性と子どもの労働を制限する工場法によってでした。この法律は労働者が行った強力な闘争に応えたものです。この対応の影響が出たのが19世紀の終わりの数十年間でした。従って、マルクスが代表作を執筆していた期間の大部分において、再生産労働には全く重要性がなかったのです。
しかし、最大の原因はマルクスがテクノロジーの価値を信じており、共産主義的な社会の創設と解放の過程においては広範囲な産業化の過程を通過しなければ成らず、この大規模な産業化が労働者階級の解放において重要かつ実質的な要因の一つとなるであろうと考えていたからだと思っています。従って、マルクスの頭にあった労働モデルは家事労働を含んでおらず、彼にとっては再生産労働が未来の社会においては、当然に克服されているべきものであったのです。彼は搾取にならない方法で労働力に適用できるような産業化、産業労働と産業の形態に注目していました。この意味では家事労働は全く彼の興味を引かなかったのだと思います。彼は、当たり前のこととみなしていたのです。私の考えでは、マルクスにはある種の男性バイアスがあり、それによってこうしたタイプの労働をあたかも自然なものとみなしたのです。
―それでは、状況は決して変化しないように見えること、男性の仲間と一緒に闘うときにいつも同じ矛盾に突き当たること、彼らが自分たちの闘争に女性の視点を組み入れていないことを踏まえると、闘争の仲間たちへ送るメッセージはどのようなものになるでしょうか?
これは非常に重要な問いです。彼ら(男性の仲間たち)は二つの理由から闘争を妨害していると言えるでしょう。第一に、女性が再生産労働であまりにも忙しいという事実は、闘争に参加できない人が数多く存在することを意味しています。病気の母親や祖母、子どもの世話をしていたら、仕事をしていたら、あなたはデモに行くことも、会議に参加することもできず、こうしたことを忘れてしまいます。第二に、男性が女性に対する暴力、女性嫌悪、女性の身体に対する国家の攻撃などに反対して闘うことが必要なのです。
どうして、あらゆる分野を越えてすべてに介入を行うような、女性への暴力に反対する男性の運動が存在しないのでしょうか? 他の男性を教育しなければならないのは男性なのです。もしそれを行わないのであれば、彼らが闘争を妨害していることになります。私の意見では、これは極めて重要な問題です。そして、彼らは自分たちの闘争を蝕んでいます。女性に対する男性の暴力をこれほど許容する運動では闘争に勝つことも、資本主義に勝利することもできないからです。女性を虐待し、攻撃し、屈辱を与える、あるいは、そのエネルギーと自尊心を吸い取るような方法で女性を扱う男性がいれば、資本家は警察を必要としません。男性がこの問題と向き合うことを始めないのなら、闘争が進まないと文句を言う事はできません。