ウクライナが侵略され、台湾が恫喝されてる中で77年目のヒロシマ

8月になり広島・長崎の季節が巡ってきましたが、今年は5ヶ月以上続いているウクライナ侵略戦争と直近の台中緊迫化が起こり洋の東西がピリピリしている状況でメモリアルを迎えています。

起きてしまった戦争はどのようにロシアに責任を取らせて早期に終わらせるか、台湾海峡で燻っている火種は中国共産党と人民解放軍に自重してもらうか、日本ができることは何かを深く考えるタイミングですね。

・・・ってことで、コラム2本を紹介

「シリーズ 戦争と社会」(全5巻)
https://www.iwanami.co.jp/news/n45302.html

蘭信三・石原俊・一ノ瀬俊也・佐藤文香・西村明・野上元・福間良明(編集)『「戦争と社会」という問い――シリーズ戦争と社会 1』

蘭信三・石原俊・一ノ瀬俊也・佐藤文香・西村明・野上元・福間良明(編集)『社会のなかの軍隊/軍隊という社会――シリーズ戦争と社会 2』

蘭信三・石原俊・一ノ瀬俊也・佐藤文香・西村明・野上元・福間良明(編集)『総力戦・帝国崩壊・占領――シリーズ戦争と社会 3』

蘭信三・石原俊・一ノ瀬俊也・佐藤文香・西村明・野上元・福間良明(編集)『言説・表象の磁場――シリーズ戦争と社会 4』

蘭信三・石原俊・一ノ瀬俊也・佐藤文香・西村明・野上元・福間良明(編集)『変容する記憶と追悼――シリーズ戦争と社会 5』

戦争への感度、鈍っていた日本 歴史めぐる論文集5巻が完結、編集委員・石原俊さんに聞く
【朝日新聞:好書好口 2022年8月6日】

 ロシア軍のウクライナ侵攻が続く中で、日本の私たちは自分たちの戦争の歴史と、どう向き合うのか。戦争の歴史をめぐる国内の研究状況をまとめた論文集「シリーズ戦争と社会」(岩波書店)が完結した。島嶼(とうしょ)の歴史が専門でシリーズの編集委員を務めた石原俊・明治学院大学教授(歴史社会学)に、戦争の歴史との向き合い方について聞いた。

生き延びるのは「自己責任」、敗戦時も今も同じ

 「シリーズ戦争と社会」は軍隊と社会、総力戦や占領の実態、記憶と追悼などを扱う全5巻で構成される。戦時中の出来事だけでなく占領期や現代の「新しい戦争」までを視野に入れ、幅広い視点で戦争と社会の関係を問い直している。

 石原さんは「敗戦の前後に極限の形態を示した近代日本の基本構造は、21世紀の今も変わっていない」と指摘する。日本軍は兵站(へいたん)〈ロジスティクス〉をほとんど無視しており、戦争末期の東南アジアや太平洋の島々で兵たちは補給を絶たれ、いわば「自己責任」で生き延びることを余儀なくされた。「敗戦後の食糧不足や民間人の引き揚げも戦地の日本兵と同じ状況に置かれた。コロナ禍で検査やワクチン接種が滞り、経済活動が制限されるなど、弱い立場の人々が自己責任で生き延びることを強いられている現代においても、ある意味で同じようなことが起きている」

 戦争体験者の多くが世を去り、「戦争を知らない世代」が改めて戦争の記録を読み解く視点を磨かなければならなくなるとともに、21世紀の戦争は大きく変容している。「戦争は今なお世界各地で起きており、国家相手ではない『対テロ戦争』に加えて民間軍事会社が台頭し、無人兵器などの技術革新も進んでいるのに、日本ではむしろ戦争や軍事に対する感度が下がっていた」

 ただ、近年は吉田裕『日本軍兵士』(中公新書)や大木毅『独ソ戦』(岩波新書)など戦争がテーマのベストセラーも目立つ。「シリーズ戦争と社会」は、そうした幅広い読者の関心を念頭に、基本的な理論や重要な個別テーマを体系的かつ学際的に学べる構成をとったと石原さんは言う。「指導者から庶民に至るまで、軍事力の担い手が何を考えていたのか。その社会的背景に何があったのか。いかなる社会がいかなる戦争のあり方を生んだのか。ジェンダーや性暴力、冷戦や記憶・追悼の問題など、これまでの歴史学を中心としたアジア・太平洋戦争研究の蓄積を超える広がりを目指した」

沖縄や旧植民地に最前線担わせ、当事者意識なく

 では、石原さんのように戦争と社会の歴史を考える研究者の視点から、ロシア軍のウクライナ侵攻はどう見えるのか。

 「総力戦、冷戦の時代から『新しい戦争』へ、という一直線の流れではとらえにくい戦争が起きている。民間軍事組織や民兵、情報戦など『新しい戦争』の側面も見られる一方で、男性の総動員や数百万人規模で発生しているウクライナ国内外への難民・避難民などは第2次大戦を想起させる。現代の戦争であると同時に、あらゆる戦争の形式が渦を巻くように一気に表出した『近代戦史の博物館』だと言える」

 自衛隊の国連平和維持活動(PKO)への参加が決まったのは1992年。あれから30年になる。「戦後日本社会の基盤となった平和を願う価値観の広がりは軽視すべきではない。だが、そうしてもたらされた国内の平和とは裏腹に自衛隊派遣先のイラクや南スーダン、ロシアが紛争に関与したチェチェンやシリアで何が起きていたのかについて、私たちはあまりに無関心だった」

 石原さんは、核武装や非武装といった極論に流されないようにするためにも、戦争と社会の関係を考え直す必要があると考えている。

 「日米関係をもとにした戦後日本は、東西冷戦の最前線を沖縄の島々や朝鮮半島、台湾などの旧植民地に担わせてしまった。本土の人々の『もう戦後だ』という意識は、占領や冷戦、あるいは朝鮮戦争やベトナム戦争といった同時代の戦争に加担している現実を視野の外に追いやり、戦争の当事者意識を覆い隠した面がある」

 戦争をどう認識し、語るのか。今回のシリーズが戦争に対する感度を高める一歩になれば、と石原さんは願っている。(大内悟史)=朝日新聞2022年8月3日掲載

米政府が隠した「原爆投下後の日本の映像」を守り、原爆の恐ろしさを伝えた米軍カメラマン――「政府は民衆にこの恐ろしい映像を見せたくなかったのだ」
【クーリエ・ジャポン:Rory Carroll 2022年8月5日】

1945年9月9日、米陸軍航空軍(USAAF)のカメラマンだったダニエル・マクガバンは、長崎の爆心地にいた。1ヵ月前に原爆が落とされたその地で彼が撮影していたのは、一瞬で吹き飛ばされた街、焼けて骨になった死体、放射線障害に苦しむ人々の凄惨な光景だった。

戦略爆撃の効果を検証する米国戦略爆撃調査弾の一員として、マクガバンは広島と長崎で、日本とアメリカのカメラクルーをまとめ上げる役割を果たした。

彼らの撮影した映像は、のちにアメリカの政治家と民衆に公開され、今に至るまで人々に原爆の恐ろしさを伝え続けている。

だが、観る者に強烈なインパクトを残すその映像は、マクガバンがいなければもうこの世には存在していなかったかもしれない。アメリカに戻った後、マクガバンは秘密裏にコピーを作成し、その映像を政府の抑圧から守ったのだ。

マクガバンが見た「原爆投下後の長崎」

アイルランド出身のマクガバンは、若い頃に家族でアメリカに移住した。彼はその人生を通して、アイルランド革命やフランクリン・ルーズベルト時代のホワイトハウス、戦時下のハリウッド、そしてロズウェル事件など、歴史的な場面を数多く目撃することとなった。

米陸軍航空軍の映画製作部隊である第1映画部隊に配属されると、第二次大戦中はドイツ上空での爆撃任務に就いた。彼はそこで2回の墜落を生き延びた。この任務で彼が撮影した映像は、1944年のドキュメンタリー『メンフィス・ベル 空飛ぶ要塞の物語』に使用されている。

だが、彼の代表作となったのは、1年後の日本で撮影した写真と映像だった。

2005年に亡くなったマクガバンは生前、当時の長崎の様子について、「田畑は白くなり、街は『巨大な金床』で真っ平にされたようだった」と語っている。

廃墟となった学校では、大量の骸骨のなかに横たわる子供の死体を見つけた。患者であふれかえる病院では、放射線障害により、発疹や脱毛、鼻や口からの出血といった症状に苦しむ人々を見た。

そのなかには、背中一面に大火傷を負った16歳の谷口稜曄(すみてる)という少年もいた。マクガバンいわく、「彼の背中全体が、煮立ったトマトでいっぱいのボウルみたいになっていた」という。谷口はその後、治療を続けながら生涯をかけて核廃絶運動に尽力することとなる。

マクガバンはこれらの光景に加えて、熱線によって亡くなった人の影が残る現象も撮影した。

機密扱いの映像をこっそり複製

その後、マクガバンのチームは自らが撮影したカラー映像と、マクガバンらが日本に到着する以前に日本映画社によって撮影された原爆投下直後の白黒映像を寄せ集めた。マクガバンは後者の編集に携わり、それは『広島・長崎における原子爆弾の影響』というドキュメンタリーになった。彼は続けて、自分たちの撮ったカラー映像もドキュメンタリーにする計画をたてた。

しかし、アメリカ政府は1946年に彼らの映像を機密扱いにした。「政府は民衆にこの恐ろしい映像を見せたくなかったのだ」と、かつてマクガバンは言った。彼は国防総省で秘密裏にコピーを2つ作成した。そして、1つをオハイオ州デイトンの空軍基地で保管し、もう1つを自分の手元に置いておいた。

月日は流れ1967年、ロバート・ケネディも所属していた上院のある委員会が、彼の映像を見たいと言ってきた。当時、すでに機密解除されてはいたものの、このときにはもうオリジナルのフィルムの行方がわからなくなっており、結局見つけることはできなかった。そこで、中佐となっていたマクガバンが、自らのコピーを渡したのだった。

1970年、アメリカの一般大衆は彼が撮影した映像の一部を初めて目にすることとなった。それらは『ヒロシマ・ナガサキ──1945年8月』という映画の一部となり、ニューヨーク近代美術館で初公開されることになったのだ。

上映当日、会場は満員だった。そして映画が終わると、観客たちは静まり返っていた。