リベラル乃至リベラリズムをめぐって、アンチと推しとでワーワー四の五のと拗れて言の泥ボールを投げあい、ともすれば場外乱闘じみたように縺れて絡まってるのを横目で見るにつけ、はるかかなたさんの連ツイを読んで、こういったことは原点たるジョン・ロールズに立ち返るべきなんだろうと考えさせられた次第。
ジョン・ロールズ『正義論』
ジョン・ロールズ『政治的リベラリズム』
[増補版 翻訳:神島裕子・福間 聡 ]
ジョン・ロールズ(サミュエル・フリーマン 編)『ロールズ政治哲学史講義Ⅰ』
ジョン・ロールズ(サミュエル・フリーマン 編)『ロールズ政治哲学史講義Ⅱ』
「リベラルがなぜ嫌われるのか?」というテーマが盛り上がっているようですが、政治哲学の分野では50年ほど前に盛り上がったことがある話題なので、簡単にご案内します。リベラルの中の人の属人的な資質の問題ではなくて、あくまでリベラルが抱える理論的な問題だからです。(1/n)
— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
今から50年ほど前に盛んだったその論争は「リベラル=コミュニタリアン論争」と名づけられています。当時は抽象的な議論に感じられたはずですが(実際抽象的だったわけですが)、理論哲学で議論されたことは2世代(大体60年)ほど遅れて世俗社会にあらわれてきますので、(2/n)
— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
今から振り返ると意外と味わい深く感じられるところもあるのではないかと思います。どちらかというとnoteに書くような内容なので冗長になりますが、書きながら考えているところもあるので、ご容赦ください。明け方前に目が冴えてしまって寝つけないハリネズミの戯言であります。(3/n)
— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
1971年、ジョン=ロールズというハーバード大の政治哲学の教授が一冊の本を出版しました。タイトルは“on the theory of justice”、邦題は「正義論」といいます。この本は理論リベラリズムの革命と言われていて、今日的なリベラリズムの理論的な骨格をつくった本といっても過言ではありません。(4/n)
— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
中身が800ページほどある鈍器本なので内容は非常に多岐に渡りますが、今回のツイートに必要なエッセンスということで要約しますと、「功利主義批判」です。
“正義とは最大多数の最大幸福であること”を旨とする【功利主義】がアングロサクソン社会を支配する倫理哲学として機能する中で、(5/n)— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
功利主義の負の側面が現実社会に致命的な悪影響を及ぼしているのではないか?とロールズは危機感を持ちました。意外なことに日本人にも関係のある話題でして、というのも彼は太平洋戦争に従軍してまして、フィリピンで日本軍と戦っているのですね。原爆投下直後の広島も目撃しています。(6/n)
— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
原爆投下の道徳的な根拠の一つは功利主義です。実際マンハッタン計画を統括したスティムソン長官は、原爆投下によってより多くの米兵と日本人の命が助かると考えました。「最大多数」の「最大幸福」。これが原爆投下の道徳的な拠り所です。しかしロールズはこれを端的に誤りだと考えました。(7/n)
— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
事実彼は1995年に“50 Year after Hiroshima”という論文を書いて功利主義原理による原爆投下の道徳的な正当化を批判しています。
彼の功利主義批判の本質は何かというと、「功利主義的は少数者の不幸を道徳的に正しいこととして認識させ、事実そのように行動させてしまう」という点にあります。(8/n)— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
アメリカ人だって自国に原爆が落とされるとなったら、いかなる理由があったとしてもどれほどの人が賛成するでしょうか。功利主義は現実の社会運営に支障をきたすほど“ダブスタ”な考え方なんじゃね? それって普遍的な正しさとは言えなくね? というのがロールズの問題提起でした。(10/n)
— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
そこで彼が考えたのが「だったらどんな立場や境遇の人でも賛同できる社会こそが最もダブスタじゃない正義的な社会なんじゃね?」ということでした。彼は“無知のヴェール”として有名な思考実験を考案するのですが、その解説はネト記事などにお任せして先に進めます。(11/n)https://t.co/ek3r7hmi8D
— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
どんな人でも正しいと考えられることはそうそうあるものではありません。ロールズは、「社会的に正しいことというのはそんなに多くはなく、公正な社会を支える必要最小限のものに留まる。それ以上のことは正しさというより多様性の問題なので、お互い寛容でいようね」的なことを主張します。(12/n)
— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
あらゆる人の立場や視点を入れ替えても成立するルールが、今日的なリベラリズムが構想する正しさの基準です。ゆえに反差別主義的。よく勘違いされるのは、相手はAだと言っているがその理論を使うと逆に私の言うことが正しくなっちゃうから論破〜という思考法はリベラリズムではありません。(13/n)
— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
仮にバカとアホが口喧嘩していたとして、二人の立場を入れ替えたとしても、それはアホとバカの口喧嘩になっただけです。それはただの低レベルな口喧嘩なのであって、普遍的な議論ではありません。反転可能性テストなのではなく、ただのミラーリング(嫌がらせ)なのであります。(14/n)
— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
さてこのようなロールズのリベラリズム哲学ですが、究極的なポイントは「功利主義のように考えると、道徳上致命的に問題のある局面が浮上する」という道徳哲学批判になります。ここを踏まえて次に進みます。
良かれと思って構想されたリベラリズムが、なぜこうも嫌われる考え方になったのか?(15/n)— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
一つの答えは、そして少なくない人が認識しているのはおそらく「中の人問題」です。リベラリズムというのは本来はいいこと言ってたのに、中の人が本来のリベラリズムをちゃんと勉強していなかったり、そもそもあんまり賢くなかったりするからこんなことになってしまったんだ、的な認知です。(16/n)
— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
これも少なからず正鵠を得ているとは思いますが、「いやそうではない。中の人がまともだったとしても、ロールズのいうリベラリズムには道徳的な考え方として致命的な欠陥がある」的なことを真面目に言い出した人たちがいました。コミュニタリアンと呼ばれる人たちです。(17/n)
— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
それが1980年代にアメリカの政治哲学界で盛り上がった「リベラル・コミュニタリアン論争」です。概要を簡単に説明します。(18/n)
— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
コミュニタリアンというのは日本語で「共同体主義」と訳されます。個人を社会の出発点だとみなすのが個人主義だとすると、個人を育て上げるのは共同体なのだから共同体が社会の出発点になると考えるのが共同体主義になります。
さてそんなコミュニタリアンがロールズをどう批判したか?(19/n)— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
この批判がいかに哲学的(抽象的)なものだったのかを感じていただくため、ここからはある論文から原文ママで引用します。「リベラル・コミュニタリアン論争再訪(宇野重規)」です。抽象的だからこそ、40年後の今でも(今でこそ)示唆的に響くところがるように感じます。(20/n)
— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
“サンデルは、負荷なき自我(unencumbered self)」という概念を提示して対抗する。ロールズがいうような「無知のヴェール」をかけられた原初状態における人間とは、いわば歴史的・社会的な属性をはぎ取られた、抽象的な自己に過ぎない。→(21/n)
— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
“しかしながら、そのような抽象的な自己に、はたして道徳的な判断ができるのだろうか。人間は歴史的・社会的に状況づけられて生きている。そのような状況と切り離された人間は、いわば剥奪された自己でありそのような自己はいかなるものにも愛着をもてず→(22/n)
— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
「自分はいかなる存在なのか」について内省することもできない。したがって,そのようなロールズの議論では善を選択することも、正義を構成することもできない、というのがサンデルの結論である。”
はい、何を言ってるかさっぱりですね。わたしもつい数年前まではそうでした。(23/n)
— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
サンデルが何をそんなに躍起になって批判しているのか、わたしがその意味が肌で感じるようになったのは、昨今のキャンセルカルチャーを目の当たりにするようになってからです。彼らのリベラル批判はキャンセルカルチャーのリスクを警告したものだったのだと、腑に落ちるようになりました。(24/n)
— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
ここは解説が必要になると思いますし、ようやっとわたしのツイートの本旨になります。先ほどの宇野論文の記述を再確認します。
「『無知のヴェール』をかけられた原初状態における人間とは、いわば歴史的・社会的な属性をはぎ取られた、抽象的な自己に過ぎない」という部分です。(25/n)— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
これはどういうことかというと、【相手に反差別的に考えることを求めるということは、相手の「歴史的・社会的属性をはぎ取って」、いったん丸裸な個人になることを要求する】ということなんです。
はい。これ、キャンセルカルチャーの論理なんですよね。(26/n)
— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
相手の職業というのは、運も含めてその人物及び共同体の歴史的・社会的属性の結実に他ならないわけです。なので、その職業というものをキャンセルして(はぎ取って)、丸裸になった個人になって考えてみれば反差別的な物の見方もできるようになるだろう、と。(27/n)
— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
差別的な人間が反差別的に物事を見るようになるためには、自分に内面化されている共同体との歴史的・関係的な結びつきを一旦はぎ取られることを要求されます。その過程の中で、共同体の中に位置づけられた人間は「剥奪された自己」に貶められ、→(28/n)
— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
「愛着をもてない、自分がそうなりたくはない自己」になってしまう。サンデルはそれをリベラル本人が自分に対してそうなってしまうことを危惧したわけですが、まさかのまさか、サンデルの当時の予想を超えて→(29/n)
— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
現実社会はリベラル的思考がそれを「他人に対してやってしまう」というステージまで到来してしまったのだと、個人的には総括しています。
実際、ロールズはサンデルらの批判を一部受け入れ、約20年後に「政治的リベラリズム」というこれまた大著を執筆します。修正点としては→(30/n)— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
「自己にかかる負荷(共同体における歴史や社会的な属性)をはぎ取って考えるのは、あんまりいい考え方じゃなかったね」ということです。
ロールズがもともと功利主義批判から出発したことを思い出してください。(31/n)
— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
彼の問題意識としては、「功利主義には機能する場面もあるが、道徳的に重大な局面で致命的なミスリードを生んでしまうことがある(ヒロシマに対する原爆投下等)。だから考え方自体を見直そうぜ」ということでした。(32/n)
— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
なので彼はサンデルらから「功利主義が危険だっていうのはわかるけど、あなたのいうようなリベラル的な考え方も理論的にリスクを抱えるんじゃね?」という批判を真摯に受け止め、自論を修正したものだと思われます。(33/n)
— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
ロールズからすれば無知のヴェールはあくまで思考実験で、「自分がヴェールをかぶって一旦あらゆる属性から解放された状態になれば、自分が不利な立場にいる可能性もあるわけだから、損得勘定で考えてみてもある立場の人が特に不利になるルールには賛成しないんじゃね?」ということでしたが、(34/n)
— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
サンデルらから「いやいや。まじでそう考えたら、やばいから。普通に考えて自分の属性を一旦はぎ取るって考え方自体がかなり危険でしょ」という突っ込みを受け、「ぐぬぬ。確かに」となった。まぁそんないきさつだったと理解しています。(35/n)
— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
かといってリベラリズムの敗北とか退場ということでもないのだろうと思っています。ここまで功利主義、リベラリズム、共同体主義という三つの政治的哲学が出てきましたが、大事なこと(そして最も教訓的なこと)は、どの哲学にも「絶対最強」というものはないんだろうということです。(36/n)
— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
功利主義、リベラリズム、共同体主義。この三つの異なる政治哲学は、むしろじゃんけんのような三すくみの関係なのではないでしょうか。(37/n)
— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
マイノリティーを抑圧を正当化する功利主義はリベラリズムに批判され、
共同体の中に生きるリアルな“生”のキャンセルを求めるリベラリズムは共同体主義に批判され、
そして異なる共同体同士の争いを調停するための原理を持たない共同体主義は功利主義に批判される。そんな関係。(38/n)
— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
社会はより公正であるために「三権分立」の仕組みで世の中まわっていますが、政治哲学に関しても功利主義、リベラリズム、共同体主義の三権分立で社会がまわっていると考えるのが健康的なのかもしれません。(39/n)
— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
それぞれ言うこと考えることもごもっともではありますが、「それぞれ批判し合って当然。絶対正義原理はない。むしろそれが社会として健康的」と考えることが社会で生きるうえでは現実的だし、何よりリアリズムということなのかもと最近はつとにそう思います。(40/n)
— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
先ほどロールズ晩年の著、「政治的リアリズム」を紹介しましたが、主な主張はこんな感じです。この点、井上達夫の指摘が簡潔なので、そのまま引用させていただきます。(41/n)
— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
「ロールズが言うには、リベラルな社会では、宗教的、哲学的な立場が多元的に分裂しているから、論争的な哲学的立場に依拠しないと受け入れられないようなそういう正義原理じゃダメだ、と。→(42/n)
— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
じゃあ、何がその支えになるかというと、ロールズが言うのは「重合的合意(overlapping sonsensus)」。どの哲学的、宗教的な教説からも、理由は違うけど、結論だけ共有できる。「同床異夢」的に。そういうのを、「オーバーラッピング・コンセンサス」という。”(43/n)
— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
理想的リベラリズムから出発したロールズが晩年は「政治的現実主義(リアリズム)」に逢着したのは、個人的には含蓄深いものがあると感じています。
ということでリベラルはなぜ嫌われるのかというと、「そもそも理論的にそういうものを含んでいるから」というのが今のわたしのアンサーです。(44/n)
— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022
ちなみにわたしの自認はリベラルでフェミニストです。長い長い連ツイでしたが、もし最後まで読んでいただいた方がいたとしたら、その方がいちばん寛容な精神をお持ちな方なんだろうと思います。お付き合いありがとうございました(45/45、了)。
— はるかかなた (@isawmydevil) November 18, 2022